ブログ

最新のお知らせ (下から上に日付が若くなります。日付順にお読みいただくと順序ただしく読めます)


2017年12月29日 : 判断力を高める
 判断力は直観力、感覚力、考察力、思考力、決断力、行動力、そして生命力を統合した力ではないかとおもう。
 以前まで代表を務めていた「こくさいや」では生産者から届いた野菜を袋詰めする仕事がある。人参やジャガイモを1キロ、2キロなどと正確に袋に詰めなくてはならない。セイカクには1キロであれば1キロにプラスニ~三十グラム余計に袋詰めしなくてはならない。
 慣れない者が行うと人参を1キロにするのに時間がかかる。1キロ60グラムになったり、980グラムになったりと中々1キロプラスαが難しい。ところが、慣れた者が行うと、躊躇なくピッタリ1キロ30グラムに計ることが出来る。何度かやり直ししながらというのはまだプロの域ではなく、人参やジャガイモを見たり手で触ったりしながら、計り直すことなく、一回の計測で目的の重さに計ってしまう。
 これは感覚力のたまものである。視覚と手の感覚で野菜の重さを瞬時に判断しているのだろう。
 競馬の武豊騎手は、騎乗している馬が石を踏むと、自分も石を踏んだような感覚になると云う。まさに人馬一体である。
 体操の一流選手は自分で演技しながらも、客観的に自分の演技を見ている自分がいるという。
 サッカー選手も一流になると、ピッチで駆け回っていながらも、グランド全体を見渡している自分もいるという。サッカーボールを自由自在におもいのままに動かすのは人玉一体というのか。。。
 大工や伝統工芸の職人も、工具が自分の一部になって、家や工芸品を作ってしまう。
 人間の感覚力はAI(人工知能)ではまだまだ到達しえない能力と領域が存在する。
 人工では決してできない生命を誕生させることは、これは女性にしかできない。男性の力をかりて、女性にしか、命を生むことはできない。命があった上での競争は男性やAIの得意とすることかもしれないが、命を生むことは男性にもAIにも絶対にできないことである。
 いつの世でも生命が生きていくのに一番大事なことは、判断力を高める努力を、面白く、楽しく、生活の中で実践していくことである。楽しいものでなくては続かない。
 マクロビオティックは判断力を高める生き方である。
 判断力はさまざまな生きる力の総称である。競馬でもサッカーでも家造りや伝統工芸でも、それぞれに生きる道の中で、食と生活を通して判断力を高めていくことである。AIであっても、AIを生み出す技術者も食と生活がなくてはAIを生み出すことはできない。AIも間接的には食と生活があってこそである。
 すべての道で、その道を究めようとするならば、食と生活が秩序あるものでなくては、極めることはできない。むしろ私たちは、それぞれの道を歩まさせていただきながら、その道を通して、食と生活の真理を学びにこの世に降り立っているのかもしれない。食と生活は大自然につながった、自然そのものと言っていいのだから、私たちは自然というものの中で生かされていることを様々な道を通して認識するために生きているのだろう。
 判断力を高めることは本当に易しいことである。好きなことをコツコツと実践することである。秩序ある食と生活で無かったら、好きなことも道半ばまでしか続かない。秩序ある食と生活を伴って好きなことをコツコツ続けていくことが、判断力を高めるコツである。
 判断力を高めることを、運命を開くと云ってもいい。行き詰まりを解消する道といってもいい。好きなことを実践することが判断力を高める。
2017年11月29日 : テンパる転じ、、、
 「テンパる」という言葉は俗語と云われるが、若者世代では広く認知されている。麻雀の聴牌(てんぱい:もう一枚の牌が入れば上がれる状態になること)が語源になって、最初は「準備万全の状態になる」という意味から、「余裕がなくなる」「あわてて動揺する」「焦る」などの意味に変わっていったという。
 藪(やぶ)医者も元は、藪(やぶ)に住む腕のいい医者が広く知られるようになって、そのうちに腕の立たない下手な医者までもが、藪医者と名乗るようになってから、藪(やぶ)医者は下手な医者になったという。言葉はその発生から意味が逆になることが少なくない。言葉も生き物であって、陰陽の変化が激しい様を物語っている。
 テンパった状態では物事はうまく進まない。何事も余裕のない状態で続けていると、どこかで必ずほころびが生じる。
 時々テンパるのはしょうがない。人は言葉に出して、自分の置かれた状況と状態を把握する生き物である。若者が「テンパってる」と言うのは、自分の状況と状態を客観視して、本能的に冷静になろうと努めているのだろう。ある種のストレス発散でもある。
 幼子はもっとすごい。嫌な時にはオギャーと泣いて、ストレスから解放されたら、ケロッとしてニコニコしている。子どもは友達や兄弟とケンカしても仲直りが早い。大人はひとたび大人同士ケンカをしたら、修復は難しいから、そう簡単にケンカすることはないし、できない。嫌なことがあってもググッと奥歯をかみしめて、ガマンすることがいかに多いか。
 子どもと大人の心の中を覗いてみたら、どっちの方が「テンパっているか」、一目瞭然だろう。
 テンパっているのは心だけではない。からだの細胞と臓器に余裕がないからテンパってしまう。からだの状態を心が鏡に映し出している。脳にはミラーニューロン(鏡の神経細胞)があるといわれる。習うは「倣う」ことからというのも、このミラーニューロンが脳を刺激するからである。ミラーニューロンは視覚などの感覚からの刺激だけでなく、からだに溜った毒素を脳の中に鏡写ししているのかもしれない。
 断食をしたことのある人はテンパった状態がいつの日か転じているのを感じたことがあるだろう。「禍を転じて福と為す」と云われるが、断食は禍を招く前に、福に転ずる生き方である。マクロビオティックそのものがそのような生き方であるが、断食を組み入れることは、その生き方を確固とする
 テンパっている人、テンパらない生き方をしたい人、ご縁ある方に断食(半断食)をおすすめしたい。現代社会そのものがテンパっている今、断食が社会の変革を促すものだと確信している。
2017年10月21日 : 笑顔と挨拶の偉力
 それほど昔の話ではありません。
 九州のある地域一帯でほとんどの学校に泥棒が入って、大規模な被害があったそうです。そんな地域の中で一校だけ、泥棒に入られずに、被害にあわなかった学校があったというのです。
 どんな学校だったのでしょうか。貧乏学校で、今にも潰れてしまいそうな学校だったのでしょうか。
 そんなことはなかったようです。
 その後に泥棒さんは捕まり、真相が明らかになりました。
 泥棒さんは盗みに入る前に、それぞれの学校を綿密に調べていたそうです。建物の様子、先生や生徒のようすまで詳しく調べてから盗みに入ったといいます。
 そして、一校だけ盗みに入らなかった理由を刑事が聴くと、その泥棒は「あそこだけは入れなかった」と言ったそうです。あの学校だけにはどうしても足を踏み入れることができなかった、というのです。おもしろいことです。
 下調べでそれぞれの学校を巡った時、その学校の生徒にヒミツがあったというのです。
 盗みの被害から免れた学校の生徒たちは、何とも清々しい言葉で「おはようございます」「こんにちは」と誰ひとりの例外なく、下調べに来た泥棒に挨拶をしていたというのです。
 もちろん生徒たちは泥棒さんを泥棒と把握していたわけではありません。どんな人にでも笑顔で挨拶する習慣がついていたのです。 その様子を目の当たりして、泥棒さんはどうしてもその学校だけには盗みに入ることができなかったのです。
 「芸は身を助ける」と云われます。「笑顔と挨拶は人を救う」というのは大げさでしょうか。
 人はダレでも生きるならばよりよく生きたいと心のどこかにおもっています。よい気を発して生きていきたいとおもっています。
 笑顔は人を癒します。言葉は人を救います。もちろん逆もあります。
 仏の道でも笑顔は最高のお布施と云います。
 笑顔と挨拶は、植物にとっては花のようなものです。きれいな花を咲かせるには、キレイな土と水、自然な光が必要です。
 笑顔と挨拶がまわりの人たちを癒し救うことができるかどうかは、日々の食と生活にヒミツがあることを知らなくてはなりません。

2017年10月3日 : 生老病死
 人間の生老病死は、この世に生を受けたものには必ずおとずれる。生まれたものは、老いて、病んで、亡くなっていく。皆ダレにも死がおとずれるから、生がイキイキとしたものになる。生まれるだけで、死がなければ、一生死ねない苦しみに苛まれるのは想像に難しくない。
 現代の人々の生老病死をみていると、生病老死または生病死がいかに多いことかと考えさせられる。
 人間は老いて病が出てくるのは自然である。ところが現代は老いずして病がでてくることが非常に多い。人間の本来の生老病死であれば、老と病は短い期間であるのだが、病院の延命措置は病と老が引き延ばされて、命の本来からはずっと遠いものになっている現実がある。
 現代一般の食と生活では、老いずして病気を発生させていることに気づかなくてはならない。
 私の祖父は、私が生まれる前の四十代の頃からパーキンソン病を患い、病んでいる期間が長かった。私は祖父と会話した記憶さえなく、私が物心つく頃には、祖父のパーキンソン病は重篤なものであった。私が小学6年の時、祖父は肺炎になったのをきっかけに、脳の機能が急激に低下し、ついには植物状態になってしまった。
 当時わが家は4世代同居の大家族であった。明治生まれの曾祖母、大正生まれの祖父母、昭和生まれの両親、そして私と弟。曾祖母は、実の息子が植物状態になり、家で寝たきりになっているのをどんな心境でいたのだろうか。祖父の完全介護を三年、祖母が中心となって自宅で続けた。
 祖父の人生は病の長い、生病死であった。
 祖父の人生があったからこそ、私はマクロビオティックの素晴らしさに気づいた。生老病死でいう病は、死の前段階にあるが、老いる前の病気は本来、からだの健全なハタラキとして体を健康に向かわせる。発熱も腹痛も、痒みも体を調整しようと起こっている反応にすぎない。祖父の病を長引かせた一番の原因は、体の反応を無視した、クスリの服用であった。パーキンソン病を患う以前から、ちょっとした不調でもクスリを服用する習慣がついていたという。
 祖父の経験を糧としてマクロビオティックを実践すると、本来の生老病死というものがよく理解できる。
 今年の二月、祖母が91才で亡くなったが、その死は本当に穏やかなものであった。眠るように、ダレ一人として迷惑をかげず、まさに飛ぶ鳥跡を濁さず、という状態で家族に見守られながら亡くなった。
 マクロビオティックは世界の伝統的な食事法と生活法が基本である。日本であれば日本の伝統的な食事と生活が基本となる。陰陽というモノサシで伝統的な生き方を実践することがマクロビオティックである。難あり、有り難しの心持ちで生きていたら、すべての困難に感謝して、生老病死の人生を生きていける。
2017年8月3日 : がんが自然に治る生き方
 半年ほど前、食養合宿(半断食)に来られた男性から、『がんが自然に治る生き方』ケリー・ターナー著プレジデント社、という本を紹介された。
 著者のケリー・ターナーさんは腫瘍内科学の研究者で、ハーバード大学時代に統合医療に興味を持ったという。その後、博士論文研究でがんが劇的に寛解した1000件以上の症例報告論文を分析したという。末期の進行がんから「劇的な寛解」に至った症例報告が世界には数多くあるのに、ダレもそれについて研究しないことに違和感を持ったケリー・ターナーさん。彼女は1年間かけて世界10か国へ出かけ、奇跡的な生還を遂げた人たち100人以上にインタビューしてわかったことがあった。
 余命宣告から「劇的な寛解」に至った人たちには実践する様々な共通事項があった。その中で、末期がんから自力で生還した人たちほぼ全ての人たちが実践していることが9つあることに気づいた。この本では、自然治癒力を引き出した9つの実践項目が章立てになっている。
① 抜本的に食事を変える
② 治療法は自分で決める
③ 直感に従う
④ ハーブとサプリメントの力を借りる
⑤ 抑圧された感情を解き放つ
⑥ より前向きに生きる
⑦ 周囲の人の支えを受け入れる
⑧ 自分の魂と深くつながる
⑨ 「どうしても生きたい理由」を持つ
 この9項目に順位はないという。人によって重点の置き方が異なるものの、劇的寛解の経験者はほぼ全員、程度の差はあれ9項目ほぼすべてを実践していた。
 わたしが指導させていただいた、末期がんから生還した人たちにも共通していて、驚くとともに納得した。そして、世界中に自然寛解した事例が論文になっているだけでも1000件以上あるということは、論文になっているのはごく一部のようであるから、相当数の「自然に治った人たち」がいることを証明している。
 抜本的に食事を変えることは、がんは生活習慣病であるのだから、がんになった食事を抜本的に変えるというのは大前提のことである。
 抜本的に食事を変える中で、治った人たちの多くが断食を経験していることは興味深い。
 断食は最大の解毒方法である。がんという毒素の塊を排毒・排泄させるのに断食は最も大きな力となっている。がんを発生させない食事とともに、定期的な断食が体に溜った毒素を排泄してくれる。
 この本を紹介してくれた男性は合宿に来る半年ほど前に肺がんが判り、医師から余命6カ月の宣告を受けていた。和道に来た時ちょうど宣告の6カ月にあたっていたのだが、食事を変えて、生き方が変わったら、宣告を受けた時よりも元気になって、がんから遠ざかっていると感じているという。
 現代の日本はがんが生活習慣病であることを忘れている。食事と生活を変え、体と心が変わってくれば、がんは治る。そのことを『がんが自然に治る生き方』が多くの事例を紹介しながら証明している。

 この9つの習慣を身につけるのにはコツがある。
 「直感に従う」ことは、簡単なことではあるのだけれど、社会通念の強い人であればあるほど、難しい。テレビやニュースから流れてくる情報を鵜呑みにしていたり、世間体や家族の顔色を伺って日々生きていると、自分の中の直感が鈍って、からだの治る力に蓋をしてしまったままの状態が続いてしまう。
 人を含めて生物はすべて、病を治す力を体内に内在している。人間でいえば、治る力の心の発動として直感がある。直感は味覚、嗅覚、聴覚、視覚、皮膚感覚の五感と密接に連動している。これらの五感が鋭くなってはじめて直感は活動的となる。
 直感は、体の中のキレイな血液である。キレイな血液が多ければ多いほど、直感が冴えるのであるが、がんをはじめ、どんな病気の人であっても、キレイな血液、キレイな細胞を持ち合わせている。これらのキレイな血液や細胞に従うことが、体全体をキレイな血液と細胞で満たすことになる。
 「抑圧された感情を解き放つ」ことが末期がんから生還した人たちに共通していたことは、心身一如、心と体は同じであるということを物語る。体にシコリやカタマリのある人は心にも抑圧した感情が大きな塊となって存在する。体をほぐすことと、抑圧された感情を解き放つことは同時進行的であるのが望ましい。体のコリ・シコリが解れてくると抑圧された感情が解放されてくるのであるが、抑圧された感情を解き放そうと意識を向けると、より深いところの感情が解放されて、体のより深い所のコリやシコリが解れてくる。
 人は本来、心地よいことは積極的に行動し、心地よくないことはしない。抑圧された感情やコリとシコリが増えた体は、心地よくないことをしてきたり、心地よくないけれど、しなくてはならないと錯覚して生きてきてしまったのだ。食べものにおいても、からだの芯の細胞が喜ぶようなものばかり食べていたら、心にも体にもコリ・シコリはできなかった。ただ、この世というものは、慈悲深い。私たちの心と体にコリやシコリを作って、コリのない体、シコリのない心がいかに素晴らしいかを教えてくれる。

 がんだけでなく、多くの病気に共通しているのは、心と体を抑圧してきた生き方にある。生き方の中心を成すのが食べ物・食べ方である。食べ物、食べ方が不自然なものであれば、言葉や行動でそれらの排毒をしようとするから、家族や身の回りの人にそれらの毒素を振りまいてしまう。毒素の発散方法がスポーツや運動、歌などに向けられれば、他の人への迷惑にならないのだが、往々にして他者へ向けて毒素を発散させてしまうことは少なくない。
 抑圧された感情を解き放つのは、体の中の抑圧された毒素を解毒・排毒させることが近道である。体の中のコリやシコリは抑圧された感情と同じである。
 抑圧された感情を家族や友人、仕事の同僚などへ、憂さ晴らしのように発散すれば、「毒素の塊」と、周りからの目が定着してしまい、家族であっても離れていってしまう。
 抑圧された感情を解き放つのに最もよい方法は、食を断つことである。断食をすると、体の中のコリとシコリが分解解毒されていく。コリとシコリの排毒反応で体がだるくなったり、頭痛がしたり、足が重くなったりすることがある。それらの排毒反応の時は、排泄されている毒素を解毒できるような飲み物を摂って、ゆっくり休むか、大いに体を動かすか、その時の状況にあわせて対処すれば、驚くほど短時間にスッキリして爽快となる。
 体のコリとシコリが解れてくると、抑圧されていた感情が自然と解放されてくる。人間とは不思議なもので、抑圧された感情が解き放たれると、抑圧されていたこと自体に有り難さを感じる。難あり有り難し、という感覚をはじめて知る。
 体のコリ・シコリが解れ、抑圧された感情が解放されると、人間は自然と前向きになる。生きることの喜びを全身で味わうことができる。そんな生き方を求めて生きていると、自然と周囲の人は応援してくれて、中には協力に支えてくれる人が出てくる。
 自分の病気から始まり、自己浄化を求めて生きていると、様々なことに気づくようになる。
 病そのものは気づきであったこと、難しい問題は自らの鍛錬であったことを知る。周りの人がいなければ自分は存在しない、自他一体の考えに至る。自分の魂は太陽、大地そのものであることを知る。魂(たましい)は「玉強い」であり、「玉静い」であることに気づく。この世に存在するものはすべて動いているように、私たちもまた「動いていたい」「生きて、その喜びをみんなでともに分かち合いたい」と自然にそんな気になってくる。