ブログ

最新のお知らせ (下から上に日付が若くなります。日付順にお読みいただくと順序ただしく読めます)


2025年12月28日 : マクロビオティック運動
 マクロビオティックの普及活動を「玄米運動!」と大森英桜はよく言っていた。白米、白パン、白人崇拝の戦後にあらがい、玄米という、蒔けば芽が出る「ホンモノの食」の普及に大森は命をかけていた。日本で生まれた玄米運動というマクロビオティック活動は桜沢如一が世界に普及し、その情熱に感化されながら日本でもマクロビオティックが深化し、普及されてきた。
 マクロビオティックの活動をぐるりと見渡してみると、その基本となるものに自然農法の普及がある。「食なきところに生命活動なし」「食は神なり」と桜沢如一はいった。近代化された農業から作られる野菜は野菜(野性的な菜)ではなく、畑菜と桜沢はいったけれど、野性的な生命力を宿すような野菜作りを追求してきたのが自然農法ではないかと思う。
 この自然農法の普及に大きな力を発揮したのが、世界救世教の岡田茂吉であり、無為自然をいった福岡正信である。彼らの提唱する自然観は、桜沢如一の宇宙観(宇宙の秩序)が基本になっているのではないかとさえ感じられる。
 マクロビオティックの普及活動の根底に、自然観・宇宙観が共通する同志に支えられてきたという現実がある。
 そして、桜沢亡き後のマクロビオティック活動で最も敬意を払わなければならないのは、桜沢リマ夫人であるだろう。マクロビオティックを長寿法という一面を遺してくれたのがリマ夫人である。リマ夫人の100才の生誕祭には世界各国から多くの方々が祝辞に来られた。そして、リマ夫人の遺したリマ・クッキングスクール(現在のマクロビオティック・クッキングスクール・リマ)は「玄米運動」の根幹である玄米の炊き方から、マクロビオティック料理の調理法を進化させながら普及している。
 マクロビオティックに出会う人たちの多くが病気治しからという面は多い。かくいう私も、私の家族も、病弱であったお陰でマクロビオティックに出会った。食養の系譜という資料があるけれど、石塚左玄からはじまる食養指導家の方々は大なり小なり自身の病弱さを食養によって回復された方が多い。
 戦後の日本、殊に桜沢如一なき日本(1966年以降)のマクロビオティック活動のトップランナーは大森英桜ではないかと思う。桜沢の宇宙観を深化させ、食養指導を進化させた。大森の食養指導は陰陽無双原理を臨機応変に活用し、どんな病気に人にも対応できる「五つの体質論」を確立させた。さらに、桜沢の提唱した七号食(ナンバーセブン)を病気別に応用したのも大森の特徴ではないかと思う。
 桜沢は生前からクラックス(無双原理問題集)という問題で、後輩たちを刺激し続けてきた。晩年、マクロビオティックを活用したエネルギー、農業、医学の各方面での進化を後世への遺言としている。その医学の面において進化させたのが大森である。大森を名誉会長にして発足したのが宇宙法則研究会(1995~2016)であった。
 私は1996年から宇宙法則研究会(略して宇宙研)の活動に参加した。大森の妻の一慧(1933~)石田英湾(1936~2010)、国清拡史(1947~)、伊藤誠(1944~2023)、鈴木英鷹(1957~2012)らが大森英桜を囲んで発足した会であった。
 宇宙研での活動は、まさにマクロビオティックを医学の面で大きく発展させた。講師陣総勢で取り組んだ半断食(七号食の応用を含めて)の中から無塩食(後に塩断ち)が生まれた。
 古今東西あらゆる医学に陰陽両面があるように、命に向き合う医学は危険も伴う。七号食(桜沢は七号食を断食という)や塩断ち(一時的な無塩食)も取り組む人の体調をよく観察しながら実践することが大事である。登山と同様、断食も塩断ちも登りがあれば下りがある。断食も塩断ちも終わると旺盛な食欲が出てくるようでなければならない。食欲は生命力だから、旺盛な食欲が出てくるような断食や塩断ちを実践することである。
 食養指導を通して、中庸というものがいかに大切であるかということを思い知らされる。桜沢は「嫌いな人に出会ったことがない」というが、これがまさに中庸ではないかと思う。「中庸に好き嫌いなし」
 桜沢の著書の中からはほとんど「中庸」という言葉はみつからない。ほとんどというのは、私は桜沢の著作を完全に覚えていないので、もしかしたらどこかに中庸という言葉があったような気もする。
 しかし、桜沢のいう健康の七大条件も、判断力の七段階の最高判断力も、自由で健康で平和な生き方は、陰陽の偏りなく、それでいて陰陽を大きく孕んだ中庸な状態ではないかと思う。サトリというのも中庸ではないかと思う。
 この中庸に至る道がマクロビオティックの食と生活ではないかと思う。
 桜沢如一にはリマ夫人をはじめ、多くの弟子がいた。米国やヨーロッパで活躍した久司道夫、南米で活躍した菊池富美男、日本で活躍した大森英桜、他にも数多くの弟子たちが食養指導を通してマクロビオティックを普及した。
 私は大森英桜の最後の弟子にあたるのだけど、師の大森の活動をまじかで見ながら、自分の活動の至らなさを痛感する。桜沢は「キリストの教えは2000年、釈迦の教えは2600年、空海も法然も親鸞も千数百年教えが続いているが、マクロビオティックはさて何年続くか」というようなことを書き残している。
 私も食養指導を通してマクロビオティックを細々と継承しているのだけど、この食養指導を後世に残さなければならないと思う。マクロビオティックや陰陽無双原理は実用弁証法である。弁証と実用も陰陽であり、この陰陽が調和してはじめて後世に残るものであると思う。この実用ということが食であると思う。
 病気は宇宙の秩序、自然の摂理の発現そのものであるから、自然に沿うことで病が快癒されるその術がマクロビオティックの食であり生活である。私はマクロビオティックの世界に関わり30年、食養指導25年、1万人以上の方々に食養指導で関わってきた。大森の遺した「五つの体質論」が私の食養指導の基礎になっている。「五つの体質論」を活用すれば(複合型など、細かく見るともっと多くのパターンになるのだが)、どんな病気にも対応できる。この経験を次の世代に残していきたいと思う。
 大森は「たった一人でいい。たった一人無双原理を理解する人が残れば、繋がっていく」といった。ダレもがそんなたった一人であれば、一粒万倍、マクロビオティックは残り、そして広がっていくだろう。

 
2025年12月9日 : 心と体の陰陽
 心と体は陰陽の関係だと思う。前回のブログで書いたように、心は陰性の力(冷、苦、煩、閑)によって鍛えられ、体は陽性な力(熱、重、動、忙)によって鍛えられる。
 しかし、多くの世界の人たちを見ていると、体を鍛えることが心を鍛え、心を鍛えることが体を鍛えている、という現象がある。
 昔から心身一如とか物心一如、文武両道などといわれる。心と体は相反するものでありながら、根は同一なるものであることを古人は感じていた証拠ではないかと思う。現に私たちの心の状態は肉体の状態にいかに同調していることか。大リーグで二刀流の活躍をしている大谷翔平は、ある記者から尋ねられたという。専属通訳から莫大な詐欺被害に遭い、精神的に参っている時であった。「大谷選手、今シーズンはメンタル的に大変だと思うのですが、どのように乗り切っていこうと考えていますか?」大谷はそれに対して「メンタルは基本的には無いと思っています。メンタルも体次第で、体の調子が良ければ問題ないと思っています」と答えたという。どの世界でも一流を極めた人たちは、心身一如を体現している。
 近年、腸は第二の脳と呼ばれ、腸内環境が脳に決定的な影響を与えていることがわかっている。
 マクロビオティックを実践すると、心と体は切っても切り離せないものだと実におもしろいように体感する。食べた物によって、体は陰に陽に変化するが、心も同じように陰に陽に変化する。
 果物や砂糖の入ったものを食べたら、鼻水が垂れてくるのはマクロビオティックを実践している人は顕著だ。心も湿って、ウジウジと煮え切らず、大事な決断をしなければならない時には、陰性食は要注意である。
 一方で、動物性の肉や卵を食べたら、体と心は極陽性になる。体にはコリや炎症などが起こり、心ではイライラしたり、他者を支配したくなったりする。
 心と体の陰陽を調和させるのに最も簡単な方法が中庸な食べ物を中心に食べることである。それが穀物である。穀物を表す禾(のぎ)に口(くち)と書いて和。私たちは穀物を食べることで自分の内側も外側も和んだ世界を創り出すことができる。東洋の端にある日本ではその穀物がお米(コメ)である。
 では、その穀物を安定的に生み出すにはどのようなことが必要なのであろうか?
 米作りをしていると何が大事であるかはスグにわかる。体力である。体に力が無ければ米作りはできない。とはいえ、自分一人の力では米作りはできない。周りの仲間と協力して田んぼに水を引かなければならない。我田引水では米作りはできない。
 ここにも陰陽がある。自分の体を鍛えることと、周りの人たちと協力していくこと、これも陰陽の調和ではないかと思う。
 桜沢如一は健脚でも知られていたようだ。強靭な精神力は強靭な足腰に宿るように思う。空海も法然も親鸞も、みな健脚だったようだ。キリストだって世界津々浦々を足で巡って健脚だったといわれる。足腰を鍛えることはこの地球の大地に根を降ろすことであり、結果として花を咲かせることなのではないかと思う。
 今、私たちは先人の歩いてきた道にあまりにも安々と乗ってしまっているのではないかと思う。私たちも先人が氣づいた体と心の一体性を足掛かりに生きるとすれば、足腰を鍛えて根を張り巡らさねばならない。今しっかりと根を張らずして10年後、20年後に花を咲かせるなんてことはできるはずがない。
 心身の病気においてもまったく同じことが言える。みずからの足で、みずからの手で病気を治していかなくては、一体ダレが治してくれるというのか?ダレもあなたの代わりに歩くことはできない。ダレもあなたに代わって病を治すことはできない。心身の健康と自由は自らだけが確立する術をもっている。
 コメ不足になりつつある社会にあって、今私たちは生き方を見直す最後の局面に来ているような氣がする。
2025年11月29日 : 体力と精神力
 ある時、大森英桜を知る人から一本の電話があった。
 「大森先生の精神力はすごかった。日本のガンジー、現代のガンジーという風だったね」という。私もその言葉に妙に納得し、大森先生の精神力にひととき想いを馳せた。
 電話越しに言われた精神力について、私は電話を切った後も頭から離れず、「精神力とは一体何なのか?」を考えた。
 精神は肉体や物質の対語であるが、肉体の力が体力であるのに対して精神の力は知力といえるのか。
 知力も精神力のひとつではあるが、すべてではないような氣がする。知識があることと精神が研ぎ澄まされていることは違う。精神というものは、もっともっと大きく不変なチカラを想起させる。
 私たちには知識の有無にかかわらず意志の力がある。思い描いたことを実現する実行力を伴った意志。意志の力は知識よりも精神に近づいているような氣がする。意志こそ精神の大きな発現であるような氣がするが、精神はもっともっと大きく広いものを含んでいるのではないか。
 オリンピックの花形競技に100m走がある。100mを如何に速く走ることができるかを競う。まさに肉体の極限を競う代表的な競技である。一方、100m走と並ぶ花形競技に42.195kmを如何に速く走り切るかを競うマラソンがある。長距離走の極限がマラソンであり、短距離走の極限が100m走である。
 これらの競技を見ていると、マラソン選手と100m走選手の体格の違いに大きな対比があり、おもしろい。スリムで締まった体つきのマラソン選手に対して筋肉隆々で大きな体をした100m走選手。持久力を競うマラソンに対して瞬発力を競う100m走。前者が陰で後者が陽という見方もできる。
 マラソン選手と100m走選手を比べれば陰陽となるが、マラソンよりも倍以上長い100kmを競う選手はマラソン選手よりもずっと陰性でなくてはならないのではないかと思う。100kmよりももっと長い距離、そんな競技はないかもしれないが、何万キロを走ったり歩いたりする競技があれば、その選手はもっともっと陰性でなくてはならないだろう。
 時間がかかればかかるだけ、その時間を持久する力こそが陰性の力である。早く走ったり歩いたりすることから、気の長くなるような道のりをゆっくりと歩むことはさらに陰性力が増さなければ続けることはできない。肉体の陽性に対して精神の陰性である。100mを如何に速く走ることは陽性の肉体の発現であり、何年も何十年もいや何百年も何千年もひとつのことをコツコツと続けてゆくことは陰性の精神の発現ではないだろうか。
 肉体を鍛えるには走ったり、重いものを持ったり、筋肉や骨に負荷をかけると肉体は強くなる。
 一方、心を鍛えるには物理的に陽性な刺激だけでなく精神的に陰性な環境に身を置くことが大事のようだ。
 ひとは閑に耐えることこそ辛く、難しいといわれる。冷、苦、煩、閑に耐えることは辛く悲しいことである。冷、苦、煩、閑は心身から見るとひじょうに陰性な状態である。この陰性な環境こそが陰性な精神を研ぎ澄ませるのだろう。肉体は陽性な負荷によって筋肉細胞が大きくなってゆくのに対して、精神は冷・苦・煩・閑の陰性な負荷によって、心の軸を一点に集中させることができる。
 肉体の陽と精神の陰が調和してはじめてヒトとなる。心身の陰陽が調和すれば、陰性な持続力と陽性な行動力が湧き起こって、思い描いたことが実現されてゆく。心身の陰陽の調和は、食物の陰陽調和を基本としている。陰陽さまざまな力は「血から」生まれている。そして、私たちの血液は食物から生まれる。陰陽が調和した食物こそが、心身の調和をもたらす。
2025年11月14日 : 一体全体
 「ひとりでいるとおかしくなりそうです」
 若い恋人同士の会話ではなく、まもなく古希を迎える男性から、こんな電話が時々かかってくる。
 骨粗しょう症から、腰椎骨折、大腿骨骨折、体の主な骨が折れているわけだから、生活もままならない。動くのもやっと。身よりなく、東京のアパートでひとりひっそり暮らしている。
 食養指導30年、多くの人に寄り添ってきて思うのは、人の幸せというのは、全体性の獲得にあるのではないか。
 人の幸せをぐるりと見渡すと、人と人、人と集団、人とモノ、それらの結合に喜びがある。結婚、入学、就職、収穫、収入など、喜びの多くが結び合うことにある。陰陽でみれば陽性なことに喜びがある。一方、離婚、退学、リストラ、不作、借金など、うまく結び合わず離れていく、陰性なハタラキに悲しみと嘆き伴うことが多い。結び合うことが陽性で離ればなれになることが陰性である。
 そしてまた、人生をぐるりと見渡すと、どちらか一方だけしか経験しないという人はいない。多くの人がみな、陰陽両方の経験を、だいたい同じくらいしているものだ。むしろ、陰陽両方を経験してこそ、人間として豊かになっていき、人間力が高まる。喜怒哀楽もまた陰陽である。
 一人の人間の健康も、社会や組織としての健康も、みな同じである。一つで全体を体現しているかどうか。一人の人間は手足の隅々まで血液がしっかり流れているか。組織や団体は、一人ひとりが活性化しているかどうか。一体が全体を獲得しているかどうか。
 ひとりで生きていても孤独でない人は、多くはないが存在する。そんな人をみていると、一人であっても全体性を獲得している。
 ひとりでいると気が狂いそうになる男性も、全体性を獲得したくてそのような感情が出てくるのだ。私たちの欲求や感情というものは命の全体性の獲得のために発動されている。この全体性というものが、中庸ではないかと思う。
 私たちは本来、存在そのものが中庸である。
 命が生まれたということは、陰陽両方をエネルギーが結び合わなくてはならない。不妊の相談を受けていると、陰に偏っても陽に偏っても妊娠しないことがよくわかる。出産だってそう。陰のハタラキと陽のハタラキがなければ、無事なお産にならない。
 一体全体、私たちはそこに向かって生きているような氣がする。
 10月25・26日、マクロビオティックわの会主催で、国際交流会が開催された。収穫の秋に行われた国際交流会では多くの収穫があった。それは、世界のマクロビオティックの一体全体性に大きく近づいた!
 マクロビオティックという言葉そのものが一体全体という中庸をあらわす言葉だが、その実現に大きな一歩を踏み出した。
 マクロビオティックは世界の伝統的な食と生活が基本にある。そこに、環境の変化、関係性の変化に対応した柔軟的な生き方がマクロビオティックである。世界各地に住む人々が、触れ合い、交流することで生まれるエネルギーはまさに一体全体、陰陽を大きく孕んだ中庸を体現していた。
 それを実現させたのは、わの会の実行委員の一人ひとりの陰陽が調和していたからだと、あらためて思った。すばらしいハタラキだった。陰に陽に氣が巡っていた。
 人間や組織の離合集散は陰陽の一面だが、それを越えて、一体全体・中庸がそこにはあった。国際交流をへて、命の全体性・中庸性を感じる素晴らしい空間であり時間となった。空間と時間も陰陽であるから、空間と時間の交わる間を「いま(間)」というが、その間も絶妙であった。
 この共感と協調の「いま(間)」を創り出したのは、穀物を中心としたマクロビオティックの食生活ではないかと思う。洋の東西では、東の米に対して西は麦であるが、西洋においてもさまざまな理由で米を食べる機会は増えている。現代ではグルテンフリーが大きな起爆剤になっているが、元を辿ると、桜沢如一や久司道夫のマクロビオティックの普及が基盤になっている。
 来日したマクロビオティック実践者の多くはコメをよく食べている。それは顔をみればわかる。私たちは食べ物のお化けだから、コメをよく食べていると、西洋人であっても本来の東洋人のようになってくる。
 さらに、コメとムギは同じイネ科(禾本科)で遺伝子の共通性も実はものすごく多い。コメ文化とムギ文化はそれぞれ特異性も多いが、共通性も多い。このイネ科の穀物を主とする人たちは、平和で調和のとれた生き方ができる。禾を口にしている人々だ。
 マクロビオティックの平和活動は、ひとことで言えば「穀物を主に食べる」に尽きる(しかし、過去に肉食をたくさんしてきた人たちは、その分解に野菜や香辛料、場合によると果物を、穀物よりもたくさん摂る必要のあるひとも多い)。私たちは穀物の種を食べるわけだが、種は一粒全体、根、茎、葉、花、そしてまた種と、すべての要素が含蓄されている。
 全体性そのものである穀物を食べていたら、私たちは自他の区別のない、自他一体、一体全体の生き方ができるのではないか。
 食養の日々の実践は小さな一歩だが、そのコツコツとした歩みは大きな一歩に繋がっていく。それもまた一体が全体に繋がることである。
 「ひとりでいるとおかしくなりそう」な人は、自然との繋がりを取り戻すことである。それは、食からであり、人からであり、生活からである。
2025年10月20日 : 美しさとは何か
 「鏡よ鏡よ鏡さん、世界で一番美しいのはダレ?」
 「それは白雪姫」という有名なフレーズがある。
 そもそも本当に美しい人は、鏡(他者に)にそんなこと聞かない、とツッコミたくなるが、人のサガでもあるから、わからないでもない。
 末娘が小学校に上がって間もない頃、私に「お父さん、世界で一番好きな人はダレ?」と聞いてきた。私は「家族のみんな世界で一番好きだよ」と答えたら、「○○兄(長男)は○○ちゃん(末娘)だよって言ったよ!」
 コノヤロー、いつの間にそんなワザを覚えた~、と高校生(当時)の長男にしてやられた。聞かれる鏡の器次第で、この世は平和にもなるし、大変な事にもなる。
 美は魔物であると、どこかのダレかが言っていた。羊が大きいと書いて美、ともいわれるが、大きいことはいいことだ、というのも魔物的である。ただ、美が非日常的な魅惑の世界にあってほしいという人間の心情もよくわかる。
 版画家の棟方志功(1903~1975)はふくよかで丸みのある女性を美の象徴としたが、現代女性の美(意識)はずいぶんとスリムなような氣がする。時代や人によって、美の感性は大きく違う。江戸時代までの美人と現代の美人に大きな違いがある。明治以降、外国との関りが大きくなって、私たちの意識に大きな変化があったことは想像に難しくない。特に戦後は、経済大国として市場化した日本は、美とビジネスが結びついた。美しさはビジネスを活発化させる一つのツールになってしまった。そんな中で、明治以降に生まれた棟方志功が江戸時代以前の女性のふくよかさを日本人女性の美の原点と捉えたのは、食養を後世に残した石塚左玄や桜沢如一の感性と通じるところがある。
 食養指導に関わり早30年、思えば陰に陽にいろいろな人に関わってきた。そんな中で、「美人とは陰陽が調和された人」だと思う。顔の左右や上下が調和的な人は健康である。実際に、脳梗塞や脳出血などで脳の病気が出現すると顔の左右に歪みが出ることが多々ある。脳だけでなく、体の臓器に異常が出ると顔に問題が出てくる。望診は顔と体の状態を統計的に観てきた学問でもある。千年以上続く東洋の代表的な診断法でもあるのだ。
 顔かたちだけでない。生き方も陰陽が調和された人が美人ではないかと思う。桜沢如一は健康の七大条件で「万事スマート」という条件をつけている。スマートというのは、「美しい」ということであり、周りの人によい氣を与えることである。見ていて清々しい、楽しいというのもスマートだと思う。
 自分の美しさにこだわるあまり、周りに不愉快な氣をまき散らしているのは、どこをどう切り取っても美とはいえない。自分のことはそっちのけで周りに尽くした人生は、それが泥まみれであっても、それ以上に美しいことはないと思う。
 アフガニスタンの地で土まみれになって現地の人の生活の向上に命をかけた中村哲の生き方こそ美しい。東洋医学の叡智を西洋人に理解させようと、アフリカで泥まみれになりながらあえて熱帯性潰瘍を患い、それを食養療法で治した桜沢如一の生き方こそ美しい。
 マクロビオティックは命を大きく観た生き方・あり方である。美しいという感性を大きく観たら、多くの人に喜ばれるような生き方そのものが美しいのではないかと思う。