最新のお知らせ (下から上に日付が若くなります。日付順にお読みいただくと順序ただしく読めます)
2024年12月18日 : 早期教育はダレのためか?
「磯貝さんのところは何で子どもが6人もいるんですか?」オモシロイ質問をしてくる人が時々ある。
「ナンデダロウネ~笑」とお茶を濁すわけではないのだが、いるものはいるのだから、しょうがない。昔の日本人は10人以上も子がいる人たちも少なくなかったが、この少子化時代に6人というのは珍しい。稼げど稼げど、どんどん出ていくから、私の財布は山を流れる渓流の川である。血液の流れもいいが、お金の流れもいい。少しはたまってほしいと思うが、血液によどみがないのがよくないのか、お金も一向にたまらない。
昔の鍼灸では「とめ鍼」といって、子どもができて出来てしょうがないご婦人に鍼をさして妊娠しない体にしていたのだが、現代は不妊鍼灸といって、不妊の人たちに鍼灸をするわけだから、ここ数十年で人々の身体はコロッと変わってしまった。肉、卵、乳製品、人工甘味料、食品添加物など、戦前は口にしないものが当たり前の社会になってしまった。さらに、現代の動物性食品はホルモン漬けで急成長させられたものばかり。
どこかの作家が、今の親は「早くしなさい、早くしなさい」と急かすけれど、その教育を煎じ詰めると「早く死になさい」になるんじゃないかと皮肉的に書いていた。単なるアイロニー的文章というわけではなく、世の真理をついた言葉ではないかと思う。促成栽培的に急かされて造られた動物食ばかり食べていると、「早く、早く」という心理になってしまう。食べ物が体をつくり、心をつくる。
日本や韓国、中国、この東洋の国々は、稲作文化が根底にある。稲作は一人で行うことはできなく、共同作業を基本とする。稲作になくてはならない水は、隣り合う田んぼどうし仲良く平等に使ってきた。稲作を中心とした百姓暮らしは、周りの人々との調和的生き方が根幹にあった。時が巡って社会が変わっても、この稲作文化の横並び心理は変わらずあるように思う。隣の子どもが塾やピアノ、サッカー、テニス、英会話など習い事をしていたら、ウチの子にもというのが親の常だ。
多くの人たちに競争心というものがあるから、隣の子よりも少しでもデキがいい方がいいから、「早くしなさい、早くしなさい」となるのかもしれない。現代の促成的肉食と稲作文化の心理が、変に絡み合って現代の早期教育を流行らせているのかもしれない。やはり、コメにはみそ汁と漬物が合うのだ。コメに肉をつけて食べると、体も心も変になることは、食養指導を通して確信している。
親はどこをみて子育てしているのだろうか?
子どもをみて子育てしるのだろうか?
世間や隣近所をみてはいないだろうか?
親は健康で幸せで自由なのだろうか?
ダレだって子ども達には幸せになってもらいたいと思っている。食べるもの、住むところ、お金に不自由しない生活を送ってほしいと思っている。だけれども、昔の人達は「子に美田は残すな」と言って、自分の家族だけの繁栄という私利私欲を強く戒めている。桜沢如一も同じことを言っている。「よその子を育てることが、自分の子を育てることにつながる」
中学生や高校生で「生きることに疲れた」といって私のところに来る子がいる。ほとんどの場合、経済的には裕福な家の子である。教育熱心な親に育てられた子が疲れて私のところに来る。私たちはこの世に遊びに来ているはずである。奴隷のように好きでもないことをやらされる人生をおくりにこの世に生まれてきたわけでない。健康で自由で、本氣が湧きおこってくるような人生を歩む、そんな生き方をしたい。そのためにはどんな食べ物を食べて、どんな生活をしたらいいのか、探求することである。本来の教育というものはそういうもではないかと思う。
2024年11月27日 : 望診法
「先生にお会いするのは正直怖かったです」という人が時々いる。望診法のことを知っている人なのだが、私に自分の顔を見られて、欠点を指摘されるのではないかと戦々恐々としていたというのだ。
望診法というのは、人相や手相でその人の内面を探りだすことにある。人相や手相に血液や細胞、内臓の状態が表れる。心身一如であるから、心の状態も人相手相に表れる。自分では意識していない、潜在意識も顔や手に表れる。そのことを知って、望診・食養相談を受ける人は、自分の欠点をこれでもかというくらい列挙されるのではないかと思って怖かったというのだ。
ところが、いざ来てみたら、自分のよい所を誉めてもらって、「うれしくてうれしくて、飛んで跳ねるような気分になった」という。
人相や手相には、上相・中相・下相がある。上相というのは、周りの人にいい氣を発していて、見ていて癒されるような、そんな気分にさせてくれる。赤ちゃんの笑顔を見ると気分が良くなるのは、そんな赤ちゃんの顔は上相の氣を発している。和顔施(わがんせ)といって、お布施の中の最も高貴なものは笑顔だというのは、自然な笑顔は上相である所以である。
実はどんな人も、その人の中には上相・中相・下相を持っている。どんな悪人であっても、すべてが下相ということはなく、ほんのわずかでも何らかの上相を持っているものである。今、世間を賑わす、兵庫県知事は、私の目から見たら上相がたくさんある。いい人相をしている。マスコミが揃いもそろって大バッシングしているけれど、実際の仕事は兵庫県政の大改革をしていたわけだ。ある情報によると、神戸港湾の利権にメスを入れたことが今回の騒ぎに発展したという。(このコラムは2024.9.30に書いていました)
人相はウソをつかない。人相や手相はウソをつけない。
兵庫県知事を持ち出して恐縮だが、人相に上相がたくさんあるのであるが、それでも線の細さは否めない。私も含めて現代人は、若い人になればなるほど線が細くなる。線が細いというのは、言葉通り、顎や首が細いことを表す。望診では昔から、線が細いのは大事を成さない、と言われて、大事業を完成させることは難しいといった。ところが、人はハンマリング(叩かれる)を受けることで、線が太くなる。兵庫県知事は、あれだけのハンマリングを受けても、引かずに立ち向かっていく。今はまだ線が細くても、今のハンマリング(叩かれること)できっと大人物になるはずである。
一方で、周りの人に嫌な気をまいたり、不安にさせたり、心配させたりするのを下相という。恐怖感を抱かせることも下相である。下相がまったく無いという人は聖人君子以外にはなかなかいないが、それでも下相の顔がちょくちょく出てくるのは問題である。顔色がわるく、血色がうすいのも下相である。よい血液が流れていないことが下相である。
和道にちょくちょく来る人で、手の指の爪が全指黒色になっていた人があった。70代後半の女性であった。手の指の爪がすべて黒色になるのは、死相といって、死が近いことを表している。ところが、和道に毎月のように来て、生姜シップで手当てをして食を正しているうちに、少しずつ黒色が薄くなってピンク色が出てきた。高齢なので、家での食事は完全に食養はできなく、和食を心がける程度であった。それでも、毎朝欠かさずくず湯をとっていた。
自分の出来ることを日々コツコツと実践していたら、齢80を超えて、死相が消えたのである。今でも毎月のように会っているが、日々血行が良くなっている。人は高齢になっても、小さなことでも日々の精進を怠らなければ、下相を上相に変えることができるのである。
下相を上相に変える日々の実践を中相という。中相というのは日々の精進・努力のことをいう。努力は天才に勝るとよくいわれるが、これは中相の極意である。人相でも上中下というと、中相は中間の相と思われがちであるが、中庸の相である。特別な能力を備えることを中相というのではなく、ダレでもできる日々の小さな実践をコツコツ続けていくことが中相である。
人相や手相だけではない。言葉や立ち居振る舞い、家やその場の雰囲気にも上相・中相・下相がある。日々の中相の実践で、上相が大きくなり、下相が小さくなる。そんな日々を送ることそのものに大きな意味がある。
2024年11月13日 : 食養料理と手当てのバイブル
「お小水が出なくなってしまいました」と電話があったのが、私が食養指導に関わりだした当初のころである。師の大森英桜の傍らで食養指導を学んでいた時であった。食養では利尿作用として、第二大根湯(大根おろしの汁を2~3倍の水で薄めてパッと温めたもの)、小豆の煮汁、とうもろこしのひげ根の煎じ汁などを活用するのであるが、どれを試してもお小水は出てこないという。
お小水が出なくなってなんと9日も経つという。その間、いろいろな飲み物も試したので、体はパンパンに浮腫んでしまっていた。尿毒症になってしまっていたのかもしれないが、力が入らず、意識もうつろな状態にまでなっていた。
そんな時に大森の指導は、「小豆と鯉を一緒に煮て食べろ」という。食養料理では「小豆鯉」というが、小豆と鯉を一緒に煮合わせたものである。お小水が出なくなった人が早速、家族に鯉を調達してきてもらって、小豆と一緒に煮合わせて食べてみた。そうしたらビックリ、お椀一杯食べただけで、お小水がタラタラと出始めるようになった。時間をおいてもう一杯食べたら、もっと出るようになった。小豆鯉を日に三杯、3日続けて食べたら、普段のお小水に戻っていった。食養の力に驚いた。
その後、食養指導をしながら、小豆鯉が登場することはめったになかった。腎不全でも、第二大根湯と生姜シップ(お腹や背中に)でほとんどの人が腎臓が温まってお小水の出が良くなる。血行不良がひどく、冷えの強い人には第二大根湯に生姜汁を加えて飲んで、生姜シップを念入りに2~3時間すると腎臓が活性化してくる。これを何日も続けるのだが、ネフローゼの少年で2週間ほどこの手当て法を実践して腎不全を改善した例もある。
小豆鯉はどのような人に効くのであろうか。
お小水が出ないというのは、汗が出ないのと同じように陽性である。体に溜まったものが外へ出ていかないわけであるから、体に求心性の陽性な力が働いて水分が出て行かなくなっている。そんな状態の人には陽性な毒素を溶かす大根や生姜を活用する。
鯉は川魚であるが、動物である。お小水が出ないという陽性な状態になぜ動物という陽性を使うのであろうか。
大森の説明は、鯉は動物性の中でも陰性な方で、陽中の陰という位置にあるという。そして、腎不全が進行し、陽性であっても体力が低下し、陽きわまって陰になった状態では、鯉の陽性さ(植物性に近い陰性さのある)が功を奏すという。実際に、腎不全が進行すると、体力が低下し食養の五つの体質でいう「陰性の萎縮」になってしまうことが時にある。そんな状態の人には動物性食品も必要になる。
小豆鯉は穀菜食Bookの中にも登場する。数少ない動物性の料理のひとつである。
穀菜食Bookはその名の通り、穀物と野菜(海の野菜・海藻料理も)の料理が中心である。日本人は特に、穀物と野菜と海藻、そして風土に合った発酵食品で元気に暮らしていくことができる。だが時に、陰性が強くなった時には身近な動物性の陽性が必要な場合もある。陰陽の目を持って、体の陰陽に合わせて食事をして、症状の陰陽に応じて手当てをしていけば、自分が自分の医者になることができる。医療の自給自足ができる。穀菜食Bookは「自分で自分を治すバイブル」である。
自然治癒力というように、治癒力というものは自然に湧きおこってくる以外にない。病気は医者が治すのではなく、体の自然性が治しているのである。その自然性を引き出すコツが穀菜食Bookに詰まっている。
2024年10月29日 : マクロビオティックを続けるコツ
「マクロビオティックを無理なく続けるコツって何ですか?」と尋ねられることは少なくない。
マクロビオティックな生き方が板についていると、こういう質問にはパッと答えられないのだが、マクロビオティックを続けている家庭とそうでない家庭を数多く見ていると、わかることがある。
人が継続できることは「おいしい、心地いい、気持ちいい」ことである。その逆を続けることは、なかなか難しい。武道やスポーツ、学問を極めた人たちであっても、嫌なことを無理やりに続けてきたのではなく、辛いことはあっても好きなことを続けていったにすぎない。人間は理性の生き物であるが、生きものとしての本能はどこまでいっても持ち続けている。新聞ニュースをにぎわす人間模様を見聞きしていても、やはり人間は動物的な本能が優位な生き物だと思わざるをえない。
マクロビオティックを無理なく続けるコツは、とてもシンプル、「おいしいごはん」である。自分だけでなく、家族も、「マクロビオティックのおいしいごはん」を食べていたら、ほかの料理にいって帰ってこないなんてことはない。子育てにおいて、子どもたちの「未知のものを知りたい」という欲求は人間の本質的なものであるから、マクロビオティックで育ってきた子どもであればなおさら、一般的な食事に強い関心を持つ。肉、卵、乳製品、魚、砂糖や人工甘味料を使ったスイーツや飲み物が簡単に手に入る環境であれば、それらを食べてみたいと思うのは、正常な感覚である。
私は子育てをとおしても多くのことを学んできた。子ども達の感性と感覚は基本的には正しい。その感性を潰さず、スクスクと伸びることを見守ることは、やはり体にも心にもやさしい「おいしいごはん」を作ってあげることだと思う。
わが家には6人の子がいる。上の子はもう21才。19才、17才、14才と続いて、下の子二人はまだ小学生である。上の子3人はかなり厳格な食養で育てた。家でも外でも完全菜食にこだわっていたから、年に数回ある外食はすべて蕎麦屋。それも自前の醤油を持ち込んで食べていた。学校にももちろん弁当を持たせていた。私たち夫婦はそれが「正しい」と思っていたから、子どもたちは何か違和感があったようだが、それを言えなかった、らしい。21才の長女と当時のことを話すと、蕎麦屋に醤油を持っていったのが「すごく嫌だった」と、笑い話になっていて救われた。
上の子たちは、私たちに隠れて、外のものも食べていた。特に甘いお菓子は「やばいくらい、うまかった」らしく、コンビニの店員さんと仲良くなるくらい通っていた、らしい。男の子は隠すのがヘタで、タンスの奥からカビの生えた菓子パンや食べかけの菓子がニオイと一緒に発見されたりしたから、知っていたが、女子たちのそれはよく把握していなかった。女はこわい。。。
高校生にもなると、友達と外食の機会も増えるから、菓子だけでなく、動物性も食べる機会も増えてくる。次女は中学生まで動物性が一切食べられなかったが、高校になって、少しずつ食べる機会が増えてきたら、いつの間にか食べることができるようになってきた、らしい。友達と一緒にファミレスなどに行って、ニオイを嗅いでいるうちに慣れていったのかもしれない。
上3人は完全菜食のマクロビオティックで子育てをしてきた(小学校高学年くらいから少しずつ買い食いが増えてきたが)。体は元気で、スクスク育ってきた。ただ、友達との付き合いや関係性を上手に築けたかというと、なかなか難しいものがあった、らしい。それでも、子ども達は、自分の体と感性に誇りをもっている、のがよくわかる。
学校生活での嫌な思い出もあるが、「マクロビオティックのおいしいごはん」が自分の基礎になっていると言っている。妻の作る食養料理を子どもたちはいつも「おいしい」「おいしい」と言って、よく食べていた。中高生になって外の味も覚えてきたが、それでも家のご飯が一番おいしいと言っている。今でも家のご飯以上に美味しいものは食べたことがない、という。妻のごはんの基礎になっているのが、大森一慧先生のごはんである。一慧先生のごはんを一番わかりやすく伝えているのが穀菜食Bookだろうと思う。
2024年10月15日 : ジャネの法則と陰陽
ついこの間、正月を祝ったような気もするが、もうふた月もすればまた次の年だから、光陰矢の如し時が過ぎるのは早い。近所の人との立ち話でも、時が過ぎるのが早くなったという会話はすでに常套句になっている気がする。なぜ私たちは年を取れば取るほど、時間の流れを早く感じるのか。
フランスの哲学者、ポール・ジャネの時間に関する説は明解だ。
「心理的な時間の長さは、これまで生きてきた年数の逆数に比例する(年齢に反比例する)」という。逆数とは0を除く数を1で割ったもの。5の逆数は5分の1、8の逆数は8分の1となる。同じ1年でも、10歳の子どもの頃に感じる時間の心理的な長さは50歳の頃に感じるそれと比べると、1/10対1/50で、5倍も長く感じられるという。50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるが、10歳の人間にとっては10分の1に相当する。50歳の人間にとっての5年間は10歳の人間にとっての1年間に当たり、50歳の人間の5日が10歳の人間の1日に当たることになる。10歳の人間の1日は、50歳の人間の5日間に相当するわけであるから、50歳の人間に比べると10歳の人間の1日は「濃い」ことになる。逆にいうと、50歳の人間の1日は10歳の人間の1日に比べると「薄い」ということになる。
生きてきた年数によって一年の相対的な長さがどんどん小さくなることによって、時間が早く感じるというわけだ。
陰陽で考えるとさらにおもしろい。心理的に感じる時間の長さはその人の陰陽の度合いによるということでもある。動物は陽性で生まれ、陰性で死んでゆくとマクロビオティックでは捉えている。ちなみに植物は陰性で誕生し、陽性で終わりを迎えると捉えている。
子どもは大人に比べて陽性と考える。陰性になるほど時間の感じ方が短くなってゆくといえる。気が長い人は気短な人に比べ陰性である。瞬発力という陽性は年とともに衰えていくが、思慮深さという陰性は年とともに増してゆく。ジャネの法則は陰陽の法則ともいえる。
時間の心理的な長短は、人間個人だけでなく、個人の集合体である社会や文明にも当てはまるのではないかと思う。
昔の原始的な生活は、暖をとるのにも薪をあつめて火をおこし寒さを凌いでいた。これは私たち人間が体を動かすことで陽性化し、寒いという陰性な環境に適応していた。ところが、現代文明は物質文明といわれるようになり、私たちの日々の生活は石油や電気エネルギーに依存している。太陽光、風力など自然エネルギーもあるが、人の力を介さないエネルギーという点ではどんなエネルギーも人を陰性化させる。エネルギーに依存した生活は一見便利ではあるが、人間の体をどんどん陰性化させる。
私たち現代人は、運動不足で体は陰性化させられているが、情報社会の中で脳にはさまざまな情報が詰め込まされて、脳は陽性化させられているように思う。脳は陽性に凝り固められているから、パソコンやスマホがないと情報を取り出せない、ということにもなっている。
人間の体を陰性化させる物質文明は、年相応の時間よりもずっと多くの時間を私たちから奪っているともいえる。時間ドロボウから時間を取り戻すには、人間本来の生き方を探求すること以外にないのではないかと思う。