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2023年7月18日 : あせもと難病
 10年以上前、東京に住んでいる頃です。家で一人でいるとき、みそ汁が急に食べたくなり、冷蔵庫で具材を探していました。そこにエンサイらしき葉物があったのですが、随分と水分が飛んで硬くなっていました。妻が冷蔵庫に入れっぱなしにしたなあ、と思い、もったいない気持ちと半分腹を立てつつ、そのエンサイらしき葉物を使うことにしました。包丁で切りはじめたのですが、これまた随分硬いのです。普通の葉物だったらザクザクと簡単に切れる筈なのに、これは一切れ切るにも大変で、上から体の重みを包丁にあずけてなんとか切れる始末です。どれほど冷蔵庫にほったらかしにされていたのかと腹を立てつつ、何とか小切りにしたのです。そして、出汁に葉物を入れてサッと煮てから味噌を溶いてみそ汁ができました。作っている途中でも、箸に葉物が当たる感覚と鍋から立ち昇る香りからして、ちょっとおかしな葉物だなあと思いつつ、最初のひと口を口にしました。口に入れた途端、苦味とエグミが口に広がりまったく飲める代物ではなかったのです。それでもエンサイがこんな風に変わってしまったのかと相変わらず思っていたのですが、そのうちに妻が帰ってきて妻へみそ汁の話をすると、何とも怪訝な顔で「それは桃の葉よ!!バカッ」と一喝・・・。
 何とも男(わたし)はバカな生き物だとおもいつつ、昔から桃の葉は「汗疹(あせも)に効く」と云われる所以(ゆえん)が口を通してわかったものです。
 苦味の陽性に対してエグミは陰性です。万物陰陽あわせ持ち、陽大なれば陰また大なりの如く、桃の葉は陰陽のエネルギーをともに多くもっているのだなーと口を通して本能に響いてきたのでした。
 これだけの力があるがゆえに汗疹(あせも)という排毒に充分対処しうるのだなあーとおもったのです。実際に陽性の排毒である背中の汗疹、陰性の排毒である胸側の汗疹、両方に桃の葉は効果があります。桃の葉は、特にこの時期の皮膚の痒みの排毒には特効を示します。桃の葉を水に入れて、沸騰したら15分くらい煮出します。その煮出した汁で汗疹や痒い患部を洗うのです。桃の葉がたくさん取れるようならば、沢山煮出して、風呂に入れたらいいでしょう。
 子どもはよく汗疹を作ります。子どもは血液が濃く、肝臓がまだ未熟で、血液をアルカリ化する能力がまだ未発達ですから、汗疹を作って、皮膚から老廃物を排出させているのです。汗疹だけではありません。皮膚疾患全般、大小便や汗で排出しきれない老廃物を肌の表面積を増やして、排毒させてくれているのです。かゆければその分、患部を?きむしりますから、そこから余計に排毒します。
 それと、皮膚疾患が現れる人の多くが、汗腺が未発達です。日本人であれば、全身の汗腺は250万ほどあるようです。それがアトピーの人は半分以下ほどしか働いていないといわれます。中には80万も汗腺が働いていない人もいるようです。汗腺の働きは3才くらいまでに大方決まるといわれるのですが、私の経験ではいくつになってからも発達させることはできます。体に合った日々の食養と手当て、運動を基本に、時に断食を取り入れることで、汗をかけなかった人も、しっかり汗をかけるようになります。
 10年ほど前に、突発性後天性全身性無汗症という病気の青年が来ました。全身の汗腺が働かなくなって、汗をかくことができなくなってしまったのです。汗をかけないわけですから、夏は体中が火照り、常に水を浴びていないといられません。その青年が体に合った食養と手当て、そして断食の実践で、3カ月ほどで汗がかけるようになったのです。当時はまだ難病指定されていませんでしたが、今では患者数が増えて、難病指定されている病気です。そんな病気であっても、陰陽の理を解して、食を変えれば治っていくのです。
2023年6月29日 : 食べた物は体のどこへ行くか
 「食べた物は小腸で吸収されて栄養素として全身に運ばれる」と、人間が食べた物は体のどこへ行くかと問われたら、現代生理学ではそのような答えになるでしょう。もちろんその答えが間違っているわけではないのですが、より深く考えると、もっとダイナミックな生理現象が体の中では起こっているようです。
 生物学者の福岡伸一さんが紹介したことで有名になったルドルフ・シェーンハイマー(1898-1941)の動的平衡論は、示唆に富んだヒントを私たちに与えてくれます。
 ルドルフ・シェーンハイマーはラットに食べ物を与える時、食べ物の中のそれぞれの窒素(たんぱく質)に特殊な方法で染色をして、染色された窒素(たんぱく質)がラットの体の中でどのような動きをするかということを調べました。種類の異なるたんぱく質には黄色や緑色、赤色、それぞれ違った色をつけてラットに食べさせました。その結果、それぞれのたんぱく質は体のある部分に一定期間留まり、そしてまた他のたんぱく質と入れ替わるように排出されていったというのです。例えば、肝臓には同じ色のたんぱく質が一定期間留まり、そして、抜けていき、また同じ色のたんぱく質が定着し、また抜けていく、これを繰り返しているといいます。腎臓にはまた違ったたんぱく質が一定期間留まり、抜けていき、膵臓にはまた違ったたんぱく質が同じように入れ替わっているといいます。シェーンハイマーの研究から、ラットは1年もするとすべての細胞が入れ替わるほど細胞レベルでは劇的な変化が起きていたというのです。
 私たちの体も代謝によって常に入れ替わっています。皮膚の細胞は28~42日くらいでターンオーバー(代謝)しているといいます。小腸の上皮細胞は24時間で入れ替わっているようですから、まさに一日一生、毎日新鮮な状態をキープしているのです。骨の細胞も3~5年もするとすべて入れ替わるようです。マクロビオティックでは全身の細胞は7年もすると全て入れ替わると言っていましたが、最新の研究では、全てというのはちょっと大げさで、10年くらいかかる細胞もあれば、20年してもなかなか入れ替わらない細胞もあるようです。とはいえ、私たちの細胞の大半は7年もすると入れ替わっているのです。
 「ゆく河の流れは絶えずして、もとの水にあらず」で始まる鴨長明の方丈記の世界観が、私たちの体の中でも起こっていたのです。フランスにも「変われば変わるほど変わらない」という諺がありますが、これも私たちの体の動的平衡を言ったものでしょう。生命は常に流れの中にあって、その一時の現象が今であるのです。
 マクロビオティックを提唱した桜沢如一は無双原理12の定理という理論を提唱していて、その中のひとつに「万物万象は一時的な安定の陰陽の集合体である」という論理があります。これはまさにルドルフ・シェーンハイマーの動的平衡と同じことなのです。
 動的平衡は、「食が命」を基本とするマクロビオティックをある意味で裏付けるものだと思います。さらに、細かいところでは、それぞれの病気の原因が特定の食べ物の過剰にあるということも示唆しています。例えば、胆のうをX線撮影する時、生卵を飲んで撮影すると胆のうが鮮明になるということは、卵が胆のうへ集中するということであり、卵の過剰摂取は胆のうや胆のうに隣接して密接に関係する肝臓への影響が大きいということも推察できます。実際に、胆のうの病気を発症した人の食歴をみると卵や卵を使った料理をよく食べてきた傾向が強いのです。
 現代人は、多種多様な食べ物を食べています。過去の歴史上でもっとも多種多様な食べ物を食べているのが現代の人々です。そのため、病気の種類も多種多様で、原因不明の難病も数知れません。鴨長明がいうように、私たちの体の細胞も、川の流れのように滞りなく流れていたら、健康であるはずです。流水腐らず、というように、流れに障りがなかったら健康であるのです。私たち日本人の体の流れを滞りなく流すことができる食べ物が、ごはん(おコメ)、みそ汁、漬物(野菜)です。伝統的に何千年と食べられてきた食べ物は、時代の検証を受けています。日本人には和食が、日本人の動的平衡を維持するとても大切な食生活であるのです。
2023年6月27日 : 農的感性と食糧危機
 世間一般的な農法を慣行農法といいます。化学肥料と化学農薬を使う農業が慣行農法です。化学肥料の主原料は窒素、リン酸、カリウムです。リン酸はリン鉱石を原料に作られています。リン鉱石は、太古の昔の動物の糞尿が固まったものです。何万年の歳月をかけて鉱石になっているので、リン濃度の高い石になっているのです。鶏糞、豚糞、牛糞などを肥料として活用する有機農法は、これらの糞尿からリン酸や窒素を活用しているのです。
 自然栽培では化学肥料も有機肥料も使わず、土本来のエネルギーを活用しています。土は微生物、植物の腐食、鉱物のまじりあいであるのですが、外から肥料を持ち込まなくても、草が生い茂っています。その草は時期が来れば枯れて、微生物と水と光のお陰でまた土に還って行きます。土は本来、光と水と微生物によって循環し、植物を育むことができるのです。光と水と微生物が土の中で循環的に活性化することで、適量の窒素、リン酸、カリウムが生まれるのです。外から持ち込む必要は本来ないのです。
 ところが、膨大な量を収穫しようと、肥料が過剰になると、過剰な肥料分をエサにする微生物や虫が大量発生して、病気が発現します。植物の病的現象は、過剰な肥料分の解毒反応といえるのです。虫食い野菜は過剰肥料が原因なのです。慣行農法だけでなく、有機農法でも肥料が過剰になってくると、植物に虫がついたり、病気が出てきます。自然栽培でも過去に使用した肥料分が田畑に残っていると、病気が出ることが珍しくありません。植物の病気は土を本来の状態に戻そうとする自然な反応と見ることもできます。自然栽培で3~7年ほどすると、過去の肥料分が分解解毒され、土本来の力で植物が育つようになってきます。何十年、何百年と自然栽培で土作りをしていくと、その土地にあった植物が自然にできてくるのです。
 慣行農法では、窒素、リン酸、カリウムを高濃度で田畑に施しますから、それらのエネルギーばかりになって、その他のミネラルや微生物が育ちにくい土になってしまいます。特に、ドロクロといって、クロルピクリンという消毒剤で畑を消毒すると、多くの微生物が死滅します。消毒された土壌に化学肥料を投入すると、植物は高濃度の肥料を吸い上げ、見た目は大きくなるのですが、ミネラル分がほとんどない、まさに空虚な植物が育つのです。実際に、1950年代の野菜と2000年以降の野菜では、ビタミンやミネラルが1/10以下に減少しています。
 1940~60年代にかけて化学肥料が世界に出回り、食糧の生産量が飛躍的に伸びました。この時期の農業改革を緑の革命といいます。緑の革命によって、人口が急激に増えるのですが、同時に様々な病気が出現することにもなります。オモテ大なればウラもまた大です。
 化学肥料の主原料になっているリン鉱石は有限の資源です。埋蔵量も限られています。リン鉱石の産出国は、中国、米国、モロッコ、ロシアとなどの限られた国にしかないといわれます。政治的、戦略的に出荷量を調整しているという情報もあります。実際のところは不明なのですが、現代の食糧事情は、リン鉱石に左右されているのです。リン鉱石の世界的価格が高騰し、化学肥料も高騰しています。慣行農法の農家は悲鳴をあげているのです。化学肥料の高騰も物価高に拍車をかけています。
 さらに異常気象などの環境異変が加わり、食糧危機はいつ来てもおかしくないというのです。現代の一般的な食糧事情は、慣行農法の大規模農業に支えられています。そのような状況だと、ちょっとした歯車の狂いで、突如として食糧危機が来る可能性もあります。そんな時に私たちは、農的感性を働かせて、土作りをして農作物を育てることができたならば、食糧危機を柔軟的に回避することができるのです。野にある野草を活用することも大切なことです。
 中島みゆきが言うように、自分の船は自分で漕ぐことです。人に任せていてはドコに連れて行かれるかわかりません。食糧危機に対峙するのは、私たちに眠る農的感性を活性化することが大切です。自然栽培や自然農の基本になっているのが、私たちの農的感性です。そして、この農的感性が私たちの原始的な感性になって、生きる土台になっているのです。
2023年5月9日 : 田植えの季節
 今年も田植えの季節がやってきました。田んぼに水が入り、水田が少しずつ増えてきます。毎年見慣れた風景ですが、何とも言えない心地よさです。実際にも、心象風景でも、水田は命の源です。
 全国の田園地帯にある小中学校では、昭和30年半ばころまで、田んぼの農繁期に休みを設けていた歴史があります。田植え休み、稲刈り休みを設けて、子どもたちが田んぼの手伝いをするのです。私の父も小学生の頃に、学校が休みなって、田植え、稲刈りを手伝っていたといいます。昭和30年代まで、一家総出でコメ作りに励んでいたのです。昭和30年後半になると、田植え機、稲刈り機などが出現し、コメ作りの機械化が少しずつ普及するようになってきます。現代では、一度に何列も苗を植えられる機械や、刈り取りと脱穀を同時にしてしまうコンバインという機械まであり、大幅な人的省力化を実現しています。
 昔は、刈り取った稲を稲架(はざ)にかけて天日干ししていたものを、現代は乾燥機にかけるのが一般的です。日本人全員が天日干し米を食べることは現代では不可能です。もしそれを実現しようとするならば、かなり多くの人々がコメ作りに関わらないと難しいでしょう。
 農業の機械化は、農作業の重労働から人々を解放して、工業化、商業化、金融化に社会と人を向かわせました。人々はそれを幸福の道と信じて疑わず、ひたむきに走り続けてきました。ところが、幸せの道と思っていたものが、本当だろうか?と考え直さざる得ない状況にあるのが、現代なのかもしれません。便利な世の中ではありますが、病気は多発し、子供が減って、不安と心配の種がつきないのも現代です。「オモテ大なれば、ウラもまた大なり」マクロビオティックを提唱した桜沢如一の言葉ですが、現代はまさにそれです。便利の裏側には、大変なものが潜んでいたのです。
 機械乾燥をしたコメを種にすると、発芽率が落ち、発病率が高まります。機械化は大量生産できるのですが、その種をずっと継承することはできないのです。機械という人工的なエネルギーは、大きな働きがあるのですが、それだけでは命の継承ができません。自然なエネルギーを基本として、人工的なエネルギーは命が継承できるくらいの程度でなくてはならないのでしょう。
 わが家では、手植え、手除草、手刈り、天日干しの稲を種用としています。この種が一粒万倍となって、私たちの命になって、皆さんの命になっています。
 世界のあらゆる文明は、水があり穀物があるところに発生しています。日本を瑞穂の国といいますが、世界の文明の基本は、水と穂(こくもつ)ですから、日本だけでなくあらゆる国は本来、「みずほ」の国であるはずなのです。その中でも特に、日本は水に恵まれ、穀物に恵まれた風光明媚な風土です。
 コメ作りは命を継承していくことですから、教育の根本と言ってもいいでしょう。人間が穀物から離れたら、命が継承されない、そんな事象を至るところで見てきました。日本人がコメを食べなくなったら、腸が本来の働きをせず、遺伝子も活性しないのです。
 田んぼは命の生まれる場所です。田んぼに支えられる虫や動植物も無数にいます。田んぼこそ、自然と人間の最高傑作と言っても言い過ぎではありません。神事の中心もコメ作りから来ています。まもなく始まる大相撲も、原点はコメ作りにあります。
 日本人にとってもっとも大事なコメ作りがこれから本格化する、いい季節になってきました。
2023年5月1日 : 共感と競争
 春は卒業や入学の季節でもあります。現代の日本人は、物心ついたときから、春は人生の仕切り直しの季節になってきました。暦(旧暦)の上での春は、太陽暦の一月下旬から二月上旬ですから寒さもあって、まだ強く春を感じることはできません。春爛漫はやはり、桜の咲く三月下旬から四月上旬の卒業と入学の季節です。
 先日、娘の卒業式に参加してきました。桜の開花にはまだちょっと早かったのですが、娘にとっても親にとってもよい仕切り直しになりました。学校生活は数年間と短い時間ですが、人生を駆け出したばかりの子どもたちにとっての数年間は、大人にとっての数年間よりもずっと濃い時間であったと思います。この濃い時間の中で子どもたちは、生きていく中での大事なことを陰に陽に学ぶのです。
 人は本能的に競い合うことが好きです。かけっこや相撲取り、メンコやベーゴマ(古いですが)など、友達どうしで競い合う遊びは競争の原点です。競い合うことはおもしろいものです。むしろ、競い合わない遊びは、特に男にとっては、あまり魅力のないものかもしれません。もちろん、子どもの性質によっては競争を好まない子もいます。人と競争するよりも、自分の世界に没頭していった方がいい、という子もいます。この性質や性格も陰陽です。
 学校生活でもこの競い合いがもちろんあるわけです。徒競走や持久走など、体育では目に見える競争をするわけですが、数学や理科、社会などの一般教科でも点数を競い合って競争をしているのです。部活動においても、多くの部活動では競争が多分にあるのです。一方で、競争とは対極にある共感もまた、学校生活には沢山あります。友達との関わり合いはむしろ、競争よりも共感の方が強いかもしれません。友達どうしの触れ合いで競争が主であったら息苦しいものです。共感があるからこそ一緒にいて安心感が湧くのかもしれません。
 この共感と競争は陰陽の関係にあると、私は思うのです。共感力と競争力をともにバランスよく持つことが人間力に繋がっていくのではないかと思うのです。
 共感力とは、他者の感情を読む力でもあり、相手の立場になって考える力でもあります。自分と他人の境を薄くして、他者に溶け込む力でもありますから、私は陰性の力が共感力ではないかと思うのです。一方で競争力は、相手よりも一歩先に行く力、相手よりも深く、または高い所へ踏み込んでいく力です。時には、他者を蹴落としでも自分が行く力が競争力です。陰性な共感力に対して、競争力は陽性ではないでしょうか。
 人類の歴史を振り返ると、この陰陽相反する二つのエネルギーがあったからこそ、人類は生き延びてきたのです。競争力という陽性なエネルギーで厳しい環境を克服し、共感力という陰性なエネルギーで厳しい環境を助け合って生きてきたのです。
 私の今までの食養生活の大半は、子どもたちとの生活が中心にありました。そこに体質改善を求める人たちが来られて、その人々との生活が私の食養生活の中心になっています。子どもから大人まで、多くの人々をみてきて、人間の本能である共感と競争を調和的に成長していくことこそ、生きる上でとても大切なことだと思うのです。
 潰瘍性大腸炎を抱えた青年が道場に来た時です。最初はその青年と私の二人きりでの生活だったのですが、その後、食養合宿がはじまり、何人もの人が合流しました。その中で同世代の女性も参加していたのです。きれいな女性でした。潰瘍性大腸炎の彼もまんざらではない感じです。私と二人きりでの生活の時には感じられないエネルギーを彼は発するのです。朝、二人だけの時は私が彼を起こすのですが、彼女たちが参加してからは自分で起きてくるのです。女性に触れあったことで、彼の中の競争力が自然治癒力に火をつけたのかもしれません。感動、感謝、感激という感情は、共感力や競争力を高めようとした行動から生まれたものではないかと思います。
 春は人生の仕切り直しによい季節です。人生を振り返って、共感と競争、自分はどちらかに偏ってきてなかったどうかをあらためて考えてみるにもよい季節です。