過去も変わる

 過去の出来事は変わらないけれど、過去の出来事に対すると捉え方は変わることが多々あります。過去にいじめられた記憶が鮮明にあっても、それらの過去を広く大きく見てみたら、自分にも悪いことがあったなあ~と内省するところも少なくないのです。
 私には現在、祖母がふたり、健在でいます。父方の祖母は今年91才、母方の祖母は87才、ともに超元気ばあーさんです。特に、近くにいる父方の祖母は、和道の庭の草むしりや掃除をしてくれて、本当に助かっています。このばあーさんがいなければ和道は保てない。
 母方の祖母は少し離れたところに居るので、それほど会う機会はありませんが、実はこの二人の祖母と私は血は繋がっていないのです。
 父の母は父が生まれると同時に亡くなり、母の母は、母が4歳の頃、亡くなりました。父と母のところに継母として嫁いできたのが、今の二人の祖母なのです。
 継母と子の関係は、想像に難しくなく、簡単なものではなかったようです。昔ながらの大家族の中で育った両親は、継母からのさまざまな仕打ちに耐えて生きてきたと云います。特に、父の父、わたしの祖父は若い頃からパーキンソン病を患っていましたから、父は両親から可愛がられた記憶がまったくないといいます。
 父は昭和25年の生まれですから、当時はまだ加工ミルクのない時代です。生まれると同時に母が亡くなったので父はヤギの乳で育ったと言います。そして、寝るのも面倒を見られるのもすべて自分の祖父母からであったのです。そんな父にとって、継母は怖いだけの存在であったと言います。パーキンソン病の祖父は父を可愛がることも出来ず、継母から守ることも出来なかったので、父は自分の祖父母から守られて育ったのです。
 私も今の祖母との想い出は、小さい時にさかのぼれば遡るほど、辛いことが多くなります。言葉に出せないこともあります。しかし、今おもうと、祖母は祖母で不運な境遇に育ち、大変な家に嫁に来たのです。(つづく)

 祖母が嫁いで早々、祖父はまだパーキンソン病と診断されていなかったのですが、パーキンソン病の症状があったと言います。無表情、無感覚はパーキンソン病の一症状ですが、父が生まれた直後からそれらはあったというのです。
 農業をなりわいにしていましたが、動きのおぼつかない祖父に代わって祖母は一生懸命畑仕事をしていたのです。祖母もわたしの両親と同じように小さい頃に自分の母を亡くし、さらに父までも早くに亡くしていました。父親代わりの兄に育てられたといいます。祖母も幼少の頃から苦労の連続だったでしょう。そこへ嫁ぎ先の婿が病気がちだったわけですから、やるせない気持ちになるのも無理はありません。
 そのような状況下で、嫁ぎ先の子を可愛く思えなかったことは、無理のないことだったかもしれません。
 成人した父は、家を飛び出そうとおもったことは一度や二度ではないようです。しかし、男兄弟はおらず、育ててもらった自分の祖父母も高齢で、家を出ることは結局できなかったと言います。そんな中で父も結婚し、わたしが生まれるのですが、血の繋がらないわたしを祖母は受け入れるはずもありません。
 幼少期の私は、家の中の不和を常に感じていました。父と祖母が会話したことを見たことがなかったのです。
 祖父のパーキンソン病は進行し、言葉はほとんど出なくなりました。そして、ある初冬の日、肺炎をこじらせて、ついに植物状態になってしまったのです。祖父の植物状態は3年間続くのですが、この介護は祖母が中心に自宅で行うのです。祖母は幼少の頃から苦労の連続だったのですが、50代になってもその苦労が消えないのですから、人生とはいかに無情なものだとおもってしまいます。
 しかし、その頃、父がマクロビオティックとの出会いがあったのです。人生の病気と不幸は食べ間違いから来ることを知った父は、食生活の見直しに取り組みだすのです。(つづく)