体質というものは、先祖の気を多分に受けている。先祖の食物、労働(運動量)、生活の質が私たちの体質には大きな影響を与える。先祖が海辺に住んでいたのと山の中に住んでいたのでは、気候もさることながら食べ物には大きな違いがある。東西南北、経度と緯度の違い、貧富の差も食物と労働内容に大きな違いを生む。先祖の食で動物性が多ければ、子孫は陽性体質の子が多く生まれる。逆に、砂糖や果物など陰性食品が多ければ、陰性体質の子孫が多く生まれてくる。運動量も体質の陰陽に大きな影響があるから、激しい肉体労働をしてきた先祖からは陽性体質の子孫が多く、肉体労働の少なかった先祖からは陰性体質の子孫が多くなる。
自分の体質を深いところで知るには、先祖がどのようなところに住み、どのようなものを食べ、どのような生き方をしてきたのかを知ることは大きな意味をもつ。
自分の体質が七代も前からの影響を受けていたら、自分の努力では体質を変えることは難しいのではないかとおもう。二百年前後かけて蓄積した体質を数年できれいさっぱり清算することは並大抵のことではない。心身が変わるということは、そう簡単なことではない。簡単なことではないから、多くの人がそれを望んで、さまざまな努力をしている。
しかし、体質というものは着実に変わっていく。数年で変えるには徹底した行が必要だけれど、十年二十年かければ、平易な生活から、むしろ易しい生活の中からしか体質は変わってこない。世の修行には難行苦行に対して易行(えきぎょう)というものがあるけれど、この易行こそが日常の生活である。
体質を知ることは先祖を知ることではあるけれど、体質を変えることは今の食と生活を正す以外にない。食と生活で心身が変わってくると、不思議なことに先祖への感謝心が湧き起こってくる。
どんな命にもかならず先祖がある。先祖なくして今はない。憎しみをつのらせた先祖であっても、自分が変わると先祖への想いが変わる。理屈では感じることができないが、実生活の中から感じるようになってくる。命というものは、すべてを生かしたい、という欲求がある。投げやりになったり、自暴自棄になったりする心そのものが、生きたい、生かしたいという、反動から生まれているのだから。