笑顔の習慣

 習慣とは大事なものです。笑顔の習慣がないと自然に笑顔が出てきません。顔の筋肉も、他の筋肉と同様に、日々習慣的に使っていないと硬くなってしまいます。ニコッと笑う習慣が身についたならば、顔の筋肉は柔らかくなり、肌の血行もよくなり、若返り、美人になります。美しい人というのは男女とわず、血行がよい人と言ってもよいでしょう。
 わたしは数多くの人の望診(食養相談)をさせていただいていて、笑顔の習慣のある人に肌の艶がよくキレイで、笑顔の習慣のない人にシミそばかすが多いのに気づきました。笑顔になることによって顔の血行がよくなり、顔だけでなく全身の血行がよくなるために、シミもそばかすも消えてゆくのでしょう。もちろん血液がキレイであるから血行が良くて笑顔が絶えないということでもあります。笑顔と血液循環は相関的なものです。
 笑顔は最大のお布施といわれます。人によい気分を与えているのです。赤ちゃんや子どもの笑顔に触れると、何とも言えない幸せな気分になります。笑顔はさらに、人に喜びや幸せを与えているだけでなく、自分自身に最大最高の健康と幸福をもたらせてくれます。笑う門には福来るです。笑顔ひとつみてもこの世とは自他一体であることに気づかされます。笑顔で幸福を与えていながら自分に返ってくる健康と幸福。なんと素晴らしいものかとおもいます。
 食を正してキレイな血液を流したならば、笑顔が自然に出てくるのですが、凝り固まった顔の筋肉を解すのは簡単なことではありません。作り笑顔でもよいでしょう。からだが本当にキレイになったならば意識せずとも笑顔が出てきます。同時に本当にキレイになったならば意識せずとも正しい食をしています。意識して正しい食をするのは、誰しもみな最初はそうです。笑顔もまったく一緒です。作り笑顔がそのうちに本当の笑顔になってきます。正しき食は顕在意識から潜在意識、そして超意識まで、すべてを浄化してくれます。
 想いが先か食が先か、これはオモシロイ問題です。
 どちらが先かは人によって違います。心の鍛錬から食が正される人もいれば、食を正して心が鍛えられ磨かれる人もいます。人によって入り口は様々です。しかし、どんな入り口からであっても、人は笑顔という最高のお布施を自他に与えて生きていけるかどうか、それはどんな出口にも共通することでしょう。入り口はどこであっても、健康と幸せの出口が一つであることは、おもしろいことです。

すべてはひとつ

 食とは何かをあらためて考えてみました。
 日に何度も人は食べものを口に運びます。口に入った食べものはからだの神秘的なはたらきによって人の細胞に転化されます。この世に生まれて、一切の食を摂らずに生きている人は誰もいません。例外なく人は食物を食べています。
 ある昼下がり、わたしは弁当をいただきながら、食とは一体なんだろうと、しみじみと想ったのです。
 そう、食は人が自然とつながっていることを一番身近で教えてくれているものだということに気づいたのです。食物を育てる人、食物を流通する人、食物を食品に加工する人、食物・食品を販売する人、料理をする人、そして食べる人。みな食物・食品を通じてつながっています。
 繋がりはもっともっと深い。食物は土と太陽と水の産物だから、人は土にも太陽にも水にもつながっています。太陽は地球に不断に光を降り注いでいます。大地は何億年をかけて地球の中を隆起しては沈降してを繰り返しています。まさに壮大なる陰陽で大地は動いています。水は大地よりもずっと速いスピードで世界を巡り、さらに早く天地を巡っています。
 自然は常に絶え間なく変化しています。変化の流れの中から生まれた食物によってわたしたちは命を繋いでいるのです。この世はすべてがつながっている。自然界に壁はなく、今ここでも、皆さんのいるそこでも、同じ空気が流れています。呼吸は空気を通じてみなが繋がっていることを教えてくれます。人は出会った時に握手をしたり、抱き合ったりします。これも私達生命はみなつながっていますよ、ということ。
 食はすべてが繋がっていることを様々なことで教えてくれます。健康であれば、人が自然と正しくつながっている証拠。一方で病は、自然と正しくつながっていないことの警告でもあります。自然との正しいつながりを健康と病が教えてくれているわけだから、病と闘ったり、病を排除しようという姿勢では決して本当の健康が訪れません。
 食正しければ、この世はすべてが繋がっていることが体感できます。自他一体がこの世のマコトの相(スガタ)と食から教わることができるのです。もちろん食からだけでなく、呼吸からも掃除からも家事からも、どんな仕事からだって知ることができます。どんなことからもすべては繋がっていると体感できるのです。

人生の4つの段階

 人生の歩みには4つの段階があります。仕事、学業、結婚、研究、様々な人間関係においても4つの段階があるとおもうのです。
 例えば仕事では「やらされている」「やってあげている」「やっている」「なっている」この4つの段階があります。やらされていたり、やってあげていたりするのは、自分の意志よりも他者の意志が強く、嫌々やっていたり、食べるためにしょうがなくやっていたりと、やらされている中にもさらに細かな段階があるでしょう。一方、自らの意志で「やっている」のは難しい中にも楽しさと充実感があり、自分の足で歩みを進めているわけですから不平不満がありません。さらに「なっている」状態になれば、すべては楽しく、創意工夫しながら取り組んでいます。いわゆる三昧という心境が「なっている」状態です。仕事三昧の人は、仕事こそ人生という生き方です。
 「やらされている」「やってあげている」段階では、その中にもさらなる細かなレベルがありますが、心へのストレスは決して小さいものではないでしょう。
 実はこの4つの段階は食養そのものにも当てはまるのです。体質改善するために自らの意志で食養を「やっている」ならばいいのですが、妻や親から(あるいは子ども達から)強く勧められて、やらされていたり、やってあげていたり、するのでは、その効用も弱いものです。食養が長く続かないのは「やらされている」「やってあげている」この感覚が強いからにほかなりません。自らの意志で食養をやっているのであれば、困難の中にも楽しさがあって、継続できるでしょう。さらに、生活すべてが食養になっていたら、続ける続けないということではなく、食養人生そのものです。食養三昧、陰陽三昧というと特殊な世界に入り込んだ趣がありますが、当の本人は泰然自若、ただ自然に食養人生を歩んでいるでしょう。
 この4つの段階は、人生のレベルをあらわしたものでないことを、私たちは肝に銘じなくてはなりません。「やらされている」「やってあげている」人達がレベルが低く、「やっている」「なっている」人達がレベルが高いわけではありません。「やらされている」「やってあげている」状態から「やっている」「なっている」状態に変化していくこともよくあり、場合によっては逆の方へ進むことさえあります。
 「やらされている」「やってあげている」人達は人生のアクセルよりもブレーキの方が効きがよく、「やっている」「なっている」人達はブレーキよりもアクセルの方が効いているのですが、社会全体をぐるりと見渡すと、これで調和をとっているのです。地球上に「やっている」「なっている」人達ばかりになり、その方向性が万が一環境に合わないものになってしまったら、私たち人類は一族郎党いっぺんに消え失せてしまうかもしれません。
 人間は陰陽が調和した生命体であるのですが、これば人類全体を見た時にも、陰陽が調和しているのです。
 今の自分自身がさまざまな生き方において、「やらされている」「やってあげている」「やっている」「なっている」のか俯瞰したとき、自分の目指す方向にただ自然に歩んでいくことが何より大切なことです。「やらされている」「やってあげている」人達も、なぜ「やらされている」「やってあげている」のかを考えたとき、人生は転換していきます。また他者を「やっている」「なっている」状態に引き上げてあげようなどというのは傲慢の極みです。どんな時でも、どんな状態でも、ただ同行することが、人が生きていくということなのだとおもうのです。

ひきこもりが社会の進化を促す

 昨今の凄惨な事件によって日本人の相当な人数に及ぶ「ひきこもり」が焦点になっています。現実の世界において家族以外の人間関係を築けず、他者との関係をほぼ断絶した状態にある人を「ひきこもり」と定義しているようですが、家族間でも関係性が希薄あるいは危険な状態にある人も少なくないようです。日本全体でも「ひきこもり」状態にある人が100万人以上いると云われますから、もはや個人の問題ではなく、社会問題であるのです。
 私は食養指導をはじめて20年近くなります。その間、一万人近い人達と交流させていただき気づいたことなのですが、人間関係に悩む人たちに共通しているのは腸に問題があるということなのです。腸が健全であれば、私たちは他者と交流することは喜びであり、決して苦であるということはないのです。仮に苦痛を伴う人間関係があったとしても、腸に底力があれば、苦労を気づきに変えて人生を歩んでいけるものなのです。むしろ、苦しみくらいなければ人生おもしろくない、という心境が健全な腸から生まれてくるのです。
 人間関係に悩むといっても、悩みは人様々です。内気で自分の感じていることを伝えられず、他者の言動を誇大に受け取ってしまい、他者に恐怖を感じる人。一方、他者の言動そのものに怒りを抱き、他者を攻撃したい衝動を感じている人もいます。前者はその思いが強くなれば自虐性が増し、後者はそれらが助長されれば排他性が強くなります。陰陽の目で見れば、前者が陰性で後者が陽性です。とはいえ、現代人は両極端な陰陽の絡み合いの面が多分にありますから、前者と後者が絡み合った人も少なくないでしょう。
 これらの極陰性と極陽性の大元になっているのが、日々私たちを養ってくれている食であるのです。人工甘味料や白砂糖などの甘味料が極陰性な心と体を作ってしまうのです。そして、家畜や養殖から生産された動物性食品が極陽性な心と体を作ってしまうことを私たちは一刻も早く気づかなくてはなりません。人工甘味料や白砂糖、家畜や養殖の動物性食品はどれも不自然な食です。不自然から作られる私たちの心と体は、やはり同じように、心と体に不自然さを感じ、生きているのか死んでいるのかわからないような心境と生き方が生まれてくるのです。自然な食で養われた私たちであったなら、生きることそのものがなんてすばらしいのだろうという心境になって、どんなことでも「ありがたい」という心持で日々の生活をおくれるのです。
 大きな視点で社会をぐるりと見渡すと、「ひきこもり」というのは、乱れた食が普通になった社会への変革変容を促す大自然からの警鐘といえます。そう考えると、ひきこもっている人達は、堂々とひきこもっていたらいいのです。むしろ、堂々とひきこもっていなくてなりません。ただひたすらに、自然な食をしてひきこもるのです。しかし、悲しいかな、自然な食を手に入れるのがあまりに難しく、不自然な食が一般になった現代では、堂々とひきこもることができなくなってしまいました。ですから、ひきこもっている人は、自然な農業と自然な生き方を求めて生きていく必要があります。
 「ひきこもり」問題は自然な農業と自然な食を中心とした社会へ進化しなくては解決されるものではありません。私たちの腸は自然な食からしか、本来の働きをしないのです。ただ自然に生きること、その重要性を気づかせてくれているのが今の「ひきこもり」問題であるのです。

ひきこもりと安らぎ

 小田原にある「はじめ塾」を開設された和田重正先生は「人間の本当の力というものは安らぎの中から生まれる」と云われました。安らぎとは何かと、立ち止まって考えてしまう現代は、安らぎの喪失した社会といっても決して大げさではないでしょう。
 中高年から子どもたちまで、家族以外の人間関係が希薄で家に閉じこもっている「ひきこもり」状態の人たちが全国に100万人以上いると云われます。その中でも40~64才の「ひきこもり」状態の人は61万人と全世代の中でもっとも多いというのです。この数字が何を意味し、「ひきこもり」はなぜ起こるのか、「安らぎ」という視点をもたなければけっして解消されるものではないでしょう。
 不安は心身を委縮させ、腸内の絨毛を縮めさせます。腸内の絨毛が委縮すると腸内細菌が減り、活動も低下します。体内の最大免疫器官である腸の働きが鈍れば、力を発揮したくてもできません。免疫は異物を排出する力ですから、腸内の働きが落ちると様々な異物を排泄できず、体にため込んでしまいます。腸内には脳に次いで多い神経細胞も集まっていますから、腸の活動が低下すれば、意欲も減退します。不安は悪循環の大元締めといえます。
 明治維新から日本は、西欧諸国の近代化を目指してひた走ってきました。1930年代には「膨張する日本」などと云われ、軍事と経済においては特に世界で大躍進を遂げました。1945年の敗戦からは軍事の面においては相対的に縮小しましたが、経済においては戦前以上に膨張しました。明治、大正、昭和はある意味において、日本人のエネルギーが拡散した時代でもあったのです。これは大きく見ると、江戸時代に培われた「安らぎ」のエネルギーが明治、大正、昭和に爆発したのです。鎖国という陽のエネルギーが明治、大正、昭和で拡散して陰性になったのです。時代は陰陽そのものです。陰性に拡散してしまったエネルギーを内に溜め込んでいる状態が、「ひきこもり」なのです。江戸時代の鎖国とは、随分と形が違いますが、陰陽の目から見れば、100人に1人が「ひきこもる」現代はある種の鎖国であるのです。
 「ひきこもり」状態の人を無理矢理に社会に出すことはできません。安らぎのエネルギーが充実してはじめて、人は他者との関係を築けます。母からの絶対的な安心がなくては子どもが成長できないように、ひきこもっている人に大切なことは「安らぎ」なのです。
 「安らぎ」のもっとも大きなものは母の手料理です。母の手料理に勝る安らぎはありません。もちろん、母の手料理は自然とつながったものでなくては、母も作り続けることはできません。
 マクロビオティック運動とは母の手料理を次世代につなぐ運動といっても過言ではありません。
 しかし、40~64才のひきこもっている人たちには、すでに母親が亡くなっていたり、料理を作ることができない母親も少なくないはずです。そんな人は、みずからで自らの食を正し、腸をキレイにしていくのです。わたしたち日本人は、日本人に合った食事をすることで、腸内は安定します。腸が元気になると心は安らぎます。
 「安らぎ」を失ってはじめて、安らぎの大事を知ることができたのですから、「ひきこもる」ことほど有難いものはありません。「ひきこもり」はダレのせいでもなく、わたしたちにおとずれた必然なのです。
 不安を取り除き。心から安らいだ状態になると人は自然と力を発揮するようになります。それが食であり愛であるのです。

新しき世界へ

 文明の発展は人類の知能が発達したわけではなく、知識の集積によると云われています。
 現人類の脳容積の平均は1450ccといわれます。数千年前に存在した縄文人は1500cc、数万年前に存在したネアンデルタール人は1600ccもあったと考古学的にわかっています。脳の大きさと知能の相関にはさまざまなな説がありますから、ここでは触れません。しかし、現代は膨大な量の知識が過去から集積され、日々の生活はその恩恵をうけていますが、知恵や知能が縄文人よりも優れているかというと、疑わしいところが多々あります。
 わたしは脳の大きさは食物の硬さによるのではないかと考えています。硬い食べ物を噛んで噛んで噛みしめた結果、脳が大きくなったとおもうのです。脳が大きくなり高次な知能を獲得し生物の頂点に達したヒトは、盛者必衰のごとく、数万年の流れの中では、今衰亡の道を歩んでいるようにおもわれます。
 噛んで噛んで噛みしめて造られた人類の頭脳の中でもっとも尊い特徴は「慎み」ではないか、と私は思うのです。人類は苦労の連続によって文明を創ってきましたが、発達した文明は人類を怠惰へ向かわせました。歴史を数千年、数万年単位で見ても盛者必衰(陰陽)はあきらかです。その中でわたしたちは次の世代に永続的な生命の鎖を繋いでいくには「慎み」が大切なのではないかとおもうのです。
 車が発明されて人は歩くことが少なくなり、楽(ラク)になりました。電気が発明されて暗闇がなくなり、静かなはずの夜が昼間のようににぎやかになりました。しかし、車は体と脳を聡明にしてくれる歩行を奪い、生命力を貶めてしまいました。電気は、心身を浄化してくれる暗闇を人間から奪うことによって、さまざまな疾病を作り出してしまったのです。今わたしたちは、生命の輝きを失ってはじめて、物質に依存した文明の本質に気付いたのです。
 原発問題にゆれる昨今、エネルギー政策は太陽光などの自然エネルギーにも向かおうとしています。しかし、無公害といわれるエネルギーであっても、人間が慎みなくそれに過剰に依存するならば、必ず生命の滅亡を早めます。一見楽そうであってもその裏にある苦の面を見通すことこそが「慎み」ではないでしょうか。楽(ラク)を求めて生きてきましたが、その実は病気や災難などの落(ラク)が待っていたのです。本当の「楽しみ」は「慎み」の生活の中に存在することに気づかされた私たちは、これから新しき世界を築いていかなければなりません。

ただ自然に

 私たちは「ただ自然に」生きていれば、本来は、健康で自由で平和な生き方ができるのですが、悲しいかな、私たちの体の細胞には「不自然な」ものが多分に含まれています。以前も紹介しましたが、PATMという病気があります。石油化学物質が体に染み込み、ベンゼンやトルエンなどの石油化学物質の臭いが体から出ているというのがPATMという病気です。
 私たちは「ただ自然に」生きることがとても難しくなってしまった時代に生を受けています。もちろん、自然という解釈には様々あります。石油だって地下深くに眠っていた太古の動物の死骸ですから、自然という解釈を広げれば自然であるといえなくもありません。しかし、石油を私たちの肌に直接塗れば、私たちの細胞はガン化します。植物の油を塗っても私たちの細胞はガン化しませんが、石油ではガン化する。そんなシロモノを食品に使ったり、洗濯や衣料品、化粧品や香水などに使っているのです。口や鼻、肌を通して私たちは石油化学物質に晒されているのです。そんな時代が、明治からはじまる近代化であり、戦後日本が歩んできた工業国としての負の一面であったのです。
 そう考えると生命力(生理学的には免疫力)を高めるものが自然で、低下させるものが不自然と言っていいのではないでしょうか。
 PATMを発症していなくとも、私たちの体には石油化学物質が少なからず溜まっています。アレルギーや化学物質過敏症、糖尿病やガンなども大きく見れば石油化学物質の害といえます。これらでできた細胞を排毒させることが、現代では差し迫って一番重要なことだと、私は食養指導を通して強く感じるのです。
 体に溜まったこれらの毒素は、有難いかな、私たちの心身に様々な病気として表出させます。これらを私たちは排毒反応と言っています。体が痛くなったり、熱を持ったり、または逆に冷えたりします。これからの季節、花粉症が多くなりますが、鼻水や目のかゆみも、排毒反応です。心の面を見れば、自己中心的でワガママになったり、自己保身が過ぎて排他的になったりします。体においても心においても、周りの人を不愉快にするのが、排毒反応です。
 桜沢如一の健康の七大条件の一つに「万事スマート」というのがあります。体に毒素が溜まっていたら、決して実現できるものではありません。
 不自然なシロモノが体に溜まった現代人が「ただ自然に」生きようとすると、有難いかな、様々な排毒反応を経験させてくれます。これらの経験は心身を浄化させて、私たちの本来の生命力を湧きあがらせてくれます。人間本来の生命力は自分と他人の区別ない、自他ともに喜びあい、高めあう、それを自然に分かち合える命であるのです。貶めあったり、蔑みあうのは、体内の毒素を排泄しようとする排毒反応としての心理であるのです。貶めあったり、蔑みあったりすれば、必ず当事者に難しさが降りかかりますから、まさに難あり有難く、試練を経験させてくれるのです。そんな生き方が、現代のマクロビオティックです。
 平成の時代は、昭和に輪をかけて、毒素がより一層溜まった時代でした。しかし、平成の後半は、それらの浄化も少しずつではありますが目が向けられるようになってきました。平成の次の時代は、浄化にますます拍車がかからなければ、決して大げさなことでなく、人類の存続も危ぶまれるように感じています。排毒の時代をいかにオモシロ楽しく歩んでいくか。それもまた、マクロビオティックのひとつのアソビではないかと考えています。

平成は脳疲労と腸疲労の時代

 ひと月遅れて今年最初のブログです。今年もどうぞよろしくお願い致します。
 平成も残すところ三カ月余り。いよいよ今年は新しい時代への仕切り直しの時となりそうです。
 平成の三十年は様々なことがありました。大きな変化の1つが情報革命だったと思います。インターネットの普及で多くの人がもの凄い量の情報を瞬時に得ることが可能になりました。「念ずれば通ず」と云われますが、現代は「スマホれば通ず」といった方がいいかもしれません。しかし、スマホで本当に通じているかというと、感情を伝えることはなかなか至難な所もあり、いくらスマホ時代といっても、人と人が心底通じ合うというのはいつの世でもそう簡単なことではないようです。
 それより何より、情報革命は私たちの脳に情報洪水を引き起こしました。私などは、ダレよりも自分の脳のキャパ(許容量)が少ないのをわかっていますから、過剰な情報は入れないことに徹しています。本当に心身が欲するところの情報をしっかり頭と体に刻み込むことの方がいかに有益かは、多くの先人が伝えるところであり、私自身も身につまされて納得するところです。
 脳はこの情報洪水を真面目にもせっせと処理しようと頑張りますから、その結果として脳疲労を引き起こしてしまうのです。一時的な脳疲労であれば、寝て起きれば疲労が取れるのですが、慢性的な脳疲労になると、まずは食が乱れます。どんな食べ物であっても、食べることそのものが一時的に脳の疲労が取れたような錯覚を起こさせます。脳疲労時の多くの場合、白砂糖や人工甘味料、人工的な添加物にさらされた食品を摂ることが一般的です。さらに、そのような食品はゆっくりよく噛んで食べるものはなく、サッと口を通って胃と腸に入るものばかりですから、結果、飽食となって脳疲労から腸疲労へと転移していくのです。更にさらに、睡眠薬や精神薬などのクスリに頼るようになると、脳疲労を改善するのではなく、疲れを無かったことにしてしまいます。疲労がとれぬまま、食と生活を変えずに、今までの脳疲労と腸疲労を勃発させた生き方を続けていきますから体の細胞は悲鳴を上げます。これが細胞疲労です。
 現代人は細胞から疲れています。まずは脳疲労と腸疲労を改善することです。その「はじめ」に断食があることは、このコラムを継続して読んでいてくれている人には、文中よりわかっていることです。筋肉が疲労したならば休ませれば回復するように、腸が疲労したならば、断食をすれば腸は回復してくるのです。腸と脳は一蓮托生です。腸の疲労が取れると不思議と脳の疲労が取れてきます。そして、脳を休ませれば腸の疲労回復は早まりますから、情報を断つことは疲労回復に相乗効果があります。
 断食中は胃腸だけでなく頭を休めることがとても重要であるのです。
 平成は多くの人々の疲労が蓄積した三十年でした。日本人の多くが背伸びをしてきたのが平成でした。次の世も、多くの人々の想い描く時代が到来します。私たちにとって必要な道が用意されています。さあ、それはどんな時代か? もう間もなくその扉が開きます。