ネルソン・マンデラとアヒムサ

 南アフリカ共和国、黒人初の大統領ネルソン・マンデラは1918年7月18日に南アフリカで生を受けます。南アフリカは南半球ですから、7月といっても冬にあたります。ネルソンは、草が青々と生い茂り、なだらかにうねる丘が続き、川が流れる南アフリカの故郷の自然が大好きだったといいます。その川は東に向かって流れ、やがてインド洋にそそぐのです。夜になると、星座がひときわ明るく輝くアフリカの空のもと、村では大きなたき火の周りに皆が集まって、長老たちの話しに耳を傾けるのが日常の風景だったといいます。
 ネルソンは、あごひげを伸ばした老人たちがしてくれる物語を夢中で聞き入っていたといいます。「白人がやってくる前の古き良き時代」の話し。先祖たちが自分たちの国を守るために、ヨーロッパからやってきた侵略者と勇ましく戦った時の話し。こういう物語を聞きながら、ネルソンは自分も人々のために尽くしたいと思うようになっていったといいます。ネルソンが初めて通った学校は、アフリカ人だけの学校でしたが、歴史の教科書に書いてあるのはヨーロッパ人の英雄のことばかりだったといいます。時にアフリカ人のことが出てくると、「野蛮人」とか「ウシ泥棒」と書いてあるのを知り、ショックを受けました。
 しかし、ネルソンは学校の勉強だけなく、学校では教わらなかった南アフリカの歴史もいろいろと学びました。160年前に、鉄砲を持ったオランダ人やイギリス人が海の向こうからやって来て、槍しか持っていない黒人たちに戦争をしかけ、彼らの土地をほとんど全て取り上げてしまったこと。その後、ボーア戦争(ボーアというのはオランダ語で農民)でイギリス人がオランダ人を打ち負かし、それまでの敵だったオランダ人と権力を分かつようになったこと。イギリス人の政府は、南アフリカに対する完全な支配権を100万人の白人だけに与え、残りの450万人の非白人は政治に関われないようにしたのです。非白人とは、アフリカ人やアジア人、それに「カラード」と呼ばれる混血の人達のことです。
 白人だけの国会が、「白人」と「非白人」を切り離すための人種分離の法律を次々に通したのです。その狙いは、南アフリカの「非白人」を肉体労働者や使用人の地位に抑え込んでおくことにありました。この非人間的な政策を実行するのに、政府は暴力に頼りました。黒人はある一定の地域にしか住めないようにして、そこから出ようとする人たちを政府の飛行機で爆撃し、多くの黒人が命を落としたというのです。このような話をネルソンは、まだ小さい子どもの頃から聞いて育ちました。
 ネルソンが9才の時、父のヘンリー・マンデラが病気で亡くなります。父は自分の死期が近いことを知った時、ネルソンを大族長の所に預けます。そして、父の死後は大族長の養子になるのです。
 ネルソンは小さい時に父を亡くすという辛苦と、白人から迫害を受ける黒人としての苦難を一身に受けます。さらに、政治運動を志してから後に、政治犯・思想犯として28年にも及ぶ投獄生活は想像に余りある苦しみだったと思うのです。そんな状況にありながら、黒人と白人が共存するための融和をネルソン自身を含めて、白人への赦し(ゆるし)を中心にしたことは驚かざるを得ません。
 肉体を鍛えるのには体へ負荷をかける運動が大切です。一方で、心を鍛えるには、あつさ、ひもじさ、むずかしさ、さむさ、が必要だと思うのです。マクロビオティックを提唱した桜沢如一は頭文字をとって「あひむさ(アヒムサ)」といったのです。アヒムサはサンスクリット語で「アヒンムサ(不殺生)」に由来します。
 ネルソンへの教育は計らずもアヒムサ教育だったのです。アヒムサで鍛えられたネルソンは平和な社会の基礎には「ゆるし」がなくては存在しえないという想いに至るのです。