素晴らしい欲のかき方

 「陰陽の奴隷になっている人は多いと思います」
 桜沢如一の最後の弟子の一人であった勝又靖彦(1940~2017)は、『陰陽の考え方を身につけて直観力を高める』(キラジェンヌ刊)の中でそういいます。
 ビール、ステーキ、カレーライス、唐揚げ、ケーキなどを欲して、食べないといられない、というのも食の執着です。一方、ビールやステーキなどのこれらも、食べてはいけない、というのも逆の意味での執着ということになります。
 断食というのは、「食べないといられない」「食べてはいけない」という執着心を薄くしてくれると感じています。
 勝又先生は『陰陽の考え方を身につけて直観力を高める』の中でこう続けます。
 「陰陽が分かると、自由になれます。(中略)全体的な視点です。それが見えてくると、ひとつの取引がダメになっても心配しなくなります。必ず世の中は陰陽でできていますから。必ず別の方から新しい取引が出てくることを何度も経験すると、それは疑うことすらなくなるくらい明らかになってきます。そうすると、ある人ともめていたとしても、そこで相手に勝つ必要もない。次はいい事があるわけですからね。一人の女の子にアタックして、どうしても振り向いてもらえないときでも、「確かにそうだな。俺にも至らない点があるな、申し訳ないことをしてしまったなぁ」と思っていると、もっと素晴らしい女性と出逢えます。それが世の中のメカニズムですから。世の中に悪いものなんて何もない。全部自分を育ててくれるありがたい機会なので、それを桜沢は「難あり、ありがたし」ということばで表現しているんですよね」
 断食というのは短期間で陰陽を体感するものすごく大きな行いではないかと思うのです。陰陽を孕んだ中庸を体感する行といった方がいいのかもしれません。
 執着心は生きている限りなんらかの形で人間は持っています。執着心は物欲のひとつの表れでもあります。執着心を消したい、無くしたい、とおもっても、そう簡単に消えて無くなるものではありません。
 人は欲が多くなると忙しくなるようです。
 あれもやりたい、これもやりたい、あれも欲しい、これも欲しい。やりたいことと、欲しいものが次から次へと出てきて、出てきたものを全部つかみ取ろうとすると、人は忙しくなります。忙しい、忙しない、という字は、「心を亡くす」と書くように、際限のない欲は、心を失ってしまいます。しかし、失ってはじめて、その有難さを痛感するものでもあります。際限のない欲は、実は私たちに大きな気づきを与えてくれているものでもあるような気がするのです。
 車のアクセルやブレーキに「アソビ」があるように、私たちの心にも「アソビ」がなくては人生をうまく進めないのではないでしょうか。アソビのないアクセルとブレーキの車は、急発進と急ブレーキを繰り返してまともに運転することができません。私達も同様、心と体にアソビがなければ、うまく生きていくことができないと思うのです。
 人間の欲というものは、自分の内側に抱え込もうとするエネルギーだから、陰陽でみると陽性です。陽性が強くなればなるほど、欲張りになって、自分の内側にばかりに目がいって、周りのことが見えなくなってしまいます。
現代の人間の欲には際限がないように見えます。科学技術は人間の欲によってつき動かされています。
 ところが人間には自然そのままの体があります。どんなに欲望の強い人であっても、地球上に永遠に生きていられません。自然は人間を100年前後であの世に送り、この世が人間で溢れかえらないようにしてくれています。人間の欲は部分的に観ると際限ないように見えても、その実は限りある儚いものです。
 和田重正(1907~1993)は、人間の欲は、歩みを進めると無欲になりたいという欲が出てくる、といいました。人間の欲は、無欲欲なるものに行きつくから、人間はそのものが欲であるといったのです。大森英桜(1919~2005)も「無欲は欲が無いのではない、無限を求める欲をいう」といったのです。
 私達は自分の欲の質を高めることに力を注ぐことが潔い生き方ではないかと思うのです。自分だけが得しようという欲は、周りの人が喜ばない。自分も周りの人も、みんなが元気になって喜ぶような、そんな欲ならば、どんなに大きくても際限のないものでもいいと思うのです。
 欲はその質によって、多くの人から喜ばれたり、嫌がられたり、疎まれたり、羨ましがられたり、いろいろです。どうせ欲をかくならば、たくさんの人から喜ばれるような、そんな欲をかきたいと思うのです。そういう欲をかける心と体でありたいと思うのです。
 人間の欲というものは、汗と一緒ではないかと思います。汗は身体から出てきますが、欲は心から出てきます。いい汗をかける人間は、いい欲をかける人間でもあると思うのです。いい汗をかこうと食と生活に目を向けて、日々精進していれば、欲も質が高まってくると感じるのです。そういう意味において、断食とはいい汗をかける体をつくり、いい欲をかける心をつくるものであると深く感じるのです。
 断食は私たちの心にアソビを与えてくれると感じます。心にアソビができることで、自分の欲を俯瞰することができます。自分の欲を俯瞰できたら、やはり自分だけでなく多くの人が喜ぶような、そんな欲をかきたいと思うようになるのが、食養の道であり、断食の道のであると思うのです。

コロナワクチンと食養

 コロナワクチンの大規模接種がはじまり、国民の多くがコロナワクチンを接種する状況になっています。コロナワクチンを打ちたくなくても、職業上やむを得ない人も少なくないといいます。政府やマスコミは全く触れませんが、ワクチンを打たなくても、免疫力さえ高ければ自然抗体が、言葉の通り、自然につくのです。国民の不安をあおって、金と時間をかけてワクチンを打ちまくるよりも、その国の民族本来の食と生活を取り戻し、衛生的で活動的な暮らしをするだけで感染症は自然に治まっていくのです。
 免疫力の高い体には病原菌や病原ウイルスは繁殖するはずもなく、むしろスーパー免疫力などといわれ、集団の中でそのような人がいると自然と集団免疫がついて、その集団は感染症を免れるという研究まであるほどです。昨年の春、新型コロナウイルスが流行しはじめたという頃、医療現場にそのようなスーパー免疫力を持っている医師や看護師を送り込もうという試みがあったようです。その試みの結果はまだわかっていませんが、もし本当に新型コロナウイルスが蔓延しているようであれば、それなりの効果が出ていてもおかしくありません。
 やむを得ずコロナワクチンを打ってしまった人も、自分の体の免疫力を高く保つことは何より大事なことです。コロナワクチンには微弱なコロナウイルスとともに様々な化学物質も含まれているといいます。これらの排毒と排泄にも私たちの免疫力が大きな役割を担っています。
 私たちは衛生的で活動的な生活をするには、日本人であればお米を中心に食べていないとなかなかできるものではないのです。米を食べることは、日本人が数千年来続いてきた自然環境を守ることに繋がります。さらには、日本人をはじめ東洋の多くの人の腸内細菌はお米との相性が抜群に良く、東洋人はお米を中心に食べていると腸内環境が安定するのです。私たちの体は免疫の中心は腸にあります。お米を食べることは体外環境においても体内環境においても、もっとも大事なことであるのです。
 日本人の米の摂取量が減り続けています。統計のある1950年と比べると今は半分以下、三分の一に近いほどまで減っています。
 私は声を大にして言いたい。コロナワクチンよりも伝統的なお米を食べることです。日本人を含め東洋人はお米を食べることで生命力が高まります。玄米にこだわらなくてもいいと思います。白米でも分搗き米でも何でもいい。まずはお米を食べることが現代の日本人には大事だと思うのです。
 とはいえ、コロナワクチンを接種した人はコロナワクチンに含まれる様々な化学物質を排毒排泄する必要があります。半永久的に体に残るなどともいわれますが、私はそんなことはないと思います。私たちの体は異物を排泄しようという働きをちゃんと持っています。2016年にノーベル賞(医学生理学賞)をとった大隅良典さんのオートファジー(自食細胞)理論がその最たるものです。細胞は飢餓にさらされると体の中の異物をエネルギーに変えて、浄化するというのがオートファジーです。
 コロナワクチンを打った人は特に、断食を実践してみるのは意味のあることだと思います。そして、私たちは大便、小便、汗などを通して、体の中の異物を排泄しています。お米を中心とした食養料理は大便と小便の通りを良くします。
 これから夏本番になってきますが、汗をかくには絶好の季節です。冷房もほどほどに、家の中や家の周りをよく掃除することです。夏の掃除は「汗をかききる」のに最高です。汗をかいたら、風呂の残り湯やシャワーで汗を流すことです。梅雨時から夏の湿気を多い季節は、汗が肌にまとわりついて汗腺をふさいでしまいます。汗腺がふさがれると毒素の発散が不十分になり、さらには肌の不快感が増してリンパ液の巡りがわるくなります。湿気の多い季節は一日に何度も行水やシャワーで汗を流すことです。仕事や学校で行水やシャワーができない人は、濡れたタオルで汗を拭くだけでもいいでしょう。