『脳は歩いて鍛えなさい3』

またまた『脳は歩いて鍛えなさい』(大島清著 新講社刊)より
疲れたら、引き返せばいい
――歩けば脳にも体にもよいのは間違いない。だが、たとえば一日一万歩歩かなくてはならないとか、毎日十五キロメートル歩かなくてはならない、毎日一時間は歩かなくてはならないなどと、課題を課さない方がいい。うつうつとした気分を晴らそうと思って、とりあえず歩こうと思っている人はなおさらだ。いやになったら戻ればいいし、疲れたらバスに乗って帰ってきてもいい。気分が乗らないとき、わたしはそうする。
 歩いていてもっと違う場所を歩きたくなったら、電車に乗って移動することもある。臨機応変、伸縮自在がわたしの肩のこらない歩き方だ。
 生真面目すぎる人に歩くことを勧めると、「一日何歩以上歩くと効果がありますか?」というようなことを聞かれる。いくら体にいいからといっても、薬の処方箋ではない。「一日一万歩以上を、三回に分けて服用」などというような決まり事はないのだ。生真面目な人には、「とりあえず歩いてみて、いやになる前に帰ってくるというのはどうですか」と提案する。つまらなくなったらやめればいいし、疲れれば歩くのがいやになる。
 こんなふうに歩いているうちに、脳がいろいろなことを話し出す。「今日は気分がいいからもっと歩きたい」とか、「寄り道をして本屋に寄ってみよう」などといろいろなことを提案するはずだ。
 そんな声に素直に従えばいい。「いやになったから今日はもう帰ろう」と脳が言えば、「いやもう十分だけ」などとがんばらずに、きびすを返して戻ればいいのだ。
 どうもわたしたちはがんばりすぎる傾向がある。決めた目標は達成しないと気持ちの悪さを感じる。
 これが案外ストレスを溜めるもとになっていることもあるのだ。だから「とりあえず」歩くということもできる。「とりあえず」やる、ことにがんばる目標や記録はいらない。あの辺りまで行ってみようかという大まかな目安があればそれでいい。あくまでも目安だ。
 がんばらずに気楽に歩く。気分がうつうつとしたとき、憂さ晴らしに歩くのはこのくらいの感じがちょうどいい。

 歩くことは原始的な脳が司令塔になっています。食べることもまた、脳の中では歩くことと同じように、原始的な脳が司令塔になっているのです。上の文章で「歩く」ことを「食べる」に置き換えても、まったく問題ないのです。
 先日、和道の合宿に来られた女性で、「食箋を真面目にやり過ぎたら、うつ病になってしまった」という人がいました。何年も無月経だった彼女は、和道で断食をして食事を変えたら、何年振りかに月経が来たといいます。その喜びがあったからなおさら、食箋を踏み外してはまた無月経に戻ってしまうと思ったのでしょう。生真面目に食箋を完ぺきに実践したのです。その緊張が半年くらい続いた時に、張りつめた糸が切れるように、職場に行けなくなり、休職せざるえない心の状態になってしまったといいます。その休職中に、マクロビオティックに「さようなら」を言うために、和道にまた来たのです。
 彼女は最初に行った断食と食箋で成功体験をしたのですが、それが重しになって、心と体の声に耳を傾けるのが疎かになっていたのです。成功と失敗は陰陽の対のようなものですから、彼女の体験も必然であるのです。歩くことも食べることも、心と体の声に耳を傾けながら行うことが大事です。その彼女は、うつ病になるくらいまで実践したからこそ気づくことができたのです。歩くことも食べることも、アソビと間が必要です。車のアクセルやブレーキにも、アソビがあります。アソビの無い車には乗れたものではありません。生きることにアソビと間が大事なことを気づかせてくれるのも、歩くことであり、食べることだと思うのです。マクロビオティックに「さようなら」を言うために来た彼女は、あらためてマクロビオティックに「入門」したいと言って帰っていったのです。