前回に引き続き『脳は歩いて鍛えなさい』(大島清著 新講社刊)より
気持ちがうつうつとしたら、とりあえず歩いてみよう
――脳内の神経伝達物質の一つであるセロトニンが注目されている。歩いているとセロトニンが増え、爽快感が増すからだ。たしかにセロトニンは精神安定剤とよく似た分子構造をもっていて、興奮や不快感をしずめる作用がある。うつうつとした気分は、セロトニンの欠乏によって引き起こされることもあるので、気分が晴れないときはセロトニンをふやす神経系を活性化させるため歩くといいだろう。
ただし、漫然と歩いていてもセロトニン神経系は活性化せず、セロトニンも増えない。セロトニンは規則正しいリズム運動の中で活性化するとされているので、歩くことに集中し、筋肉を動かしていることを意識することが大切だ。散歩というよりは、エクササイズとしてのウォーキングに近い動きが、セロトニン神経系の活性化には適していると言えるだろう。
もう一つ、セロトニン神経系は、太陽の光によって活性化される。だから、できれば朝のすがすがしい時間に、その日昇ったばかりのフレッシュな太陽光を浴びて歩きたい。朝の時間帯はセロトニンと同じ脳内神経伝達物質であるドーパミンも増えているから、本当なら何もしなくてもすがすがしいはずなのだ。
和道の食養合宿ではウォーキングを中心とした合宿も開催しています。朝から晩まで歩き続ける合宿です。自分の体力に応じて、ちょっとがんばりながらも、自分のペースで歩き続けます。距離も自分が歩けるだけ歩き、途中辛くなったらヘルプを呼んで、車で迎えに来てもらいます。10キロくらい歩ける人、20キロくらい歩ける人、30キロ歩ける人、さまざまです。
2021.9に開催したウォーキング合宿でのことです。この時、一番長い距離を歩いた人は32キロ。参加者は10代から30代の若い人が中心であったのですが、32キロ歩き切った人は、最高齢の50代後半の女性でした。この人は歩きながら呼吸法を研究して歩き、辛くなった時に呼吸のコツをつかむことで最後まで歩き切ったのです。
私もこの女性に伴走して32キロ歩いたのですが、30キロ近くなってきたら、ランナーズハイのような、恍惚感が全身を包むのです。歩いているのでウォーカーズハイですね。足先から手先までものすごく温かくなり、お腹はもうポカポカに温まっています。
実はセロトニンの最大生産場所は腸であるのです。腸が活性化するとセロトニンがたくさん造られて、さらにリズム的に歩くことによって、脳に安定的に供給されるのです。大島清さんが言われるように、「とりあえず歩いてみる」ことは何よりの心の安定につながります。そして。セロトニンの原料となるのが、ごはん、みそ汁、漬物です。みそ汁、漬物には旬の野菜と海藻を使いたいです。これらのシンプルな食事と歩くことで私たちは心穏やかに生きていけると思います。
2022年
『脳は歩いて鍛えなさい』
『脳は歩いて鍛えなさい』(大島清著 新講社刊)という本があります。著者の大島清さんは脳科学者で他にも多数の著書があります。今回のコラムは『脳は歩いて鍛えない』から抜粋して私なりに解説していきたいと思います。
――歩くことはさまざまな「情報」の中に入っていくということだ。家の中にいては大空の高さ、青さを感じることができない。坂を上がりおりすることも体験できない。木の枝にとまる小鳥も見ることができなければ、葉をゆらす風を感じることもできない。花の色や香りに足を止めるという体験もないだろう。それらの体験が、疲れた脳のマッサージになるのだ。
私たちの日常生活の大半は、自然を感じるということからいかに離れてしまったかを歩くことで知ることができます。そして、感じることの大切さを思い知るのです。大島清さんは脳科学者ですから、人間の脳は歩くことでどれほど活性化してくるかを科学的に実証しています。そして、自身の生活でも実践し、94才になる現在も元気に活動されているのです。
――自分自身に自信を失った時も、とりあえず歩いてみるといい。自身を失うのは、新しい脳である大脳新皮質だ。その証拠にこの脳が人間ほど発達していないサルは、木から落ちても自身を失わない。何事もなかったかのように、また木に飛びついていく。一方私たちはと言えば、何か失敗をするともう立ち直れないのはないかという気になってしまうことがある。本当はそんなことはないし、やり直しはきくのだが、落ち込む時は、そんな理屈がすっと体に入ってこない。それはそうだろう、頭の同じ部分で考えているだけなのだ。堂々めぐりとはこんな状態のことなのだ。だからこんな時は頭の中の別の部分を働かせる。もっとしたたかで強い本能の脳だ。
本能の脳は大脳新皮質の内側にあるようです。大脳辺縁系とよばれ、記憶や情動もつかさどり、生命の原始的な脳ともいわれています。理性の脳である大脳新皮質は「読み書きそろばん」で発達するのですが、本能の脳である大脳辺縁系は歩くという行為で活性化するというのです。自信を失っても、ただ歩くということだけで、本能の脳が活性化し、何かができそうな自信が再び湧いてくるのです。陰陽でみれば、自信を喪失するというのは陰性なことなのですが、歩いて陽性になると、いつの間にかまた自信という陽性が身につくのです。
――歩くことはさまざまな「情報」の中に入っていくということだ。家の中にいては大空の高さ、青さを感じることができない。坂を上がりおりすることも体験できない。木の枝にとまる小鳥も見ることができなければ、葉をゆらす風を感じることもできない。花の色や香りに足を止めるという体験もないだろう。それらの体験が、疲れた脳のマッサージになるのだ。
私たちの日常生活の大半は、自然を感じるということからいかに離れてしまったかを歩くことで知ることができます。そして、感じることの大切さを思い知るのです。大島清さんは脳科学者ですから、人間の脳は歩くことでどれほど活性化してくるかを科学的に実証しています。そして、自身の生活でも実践し、94才になる現在も元気に活動されているのです。
――自分自身に自信を失った時も、とりあえず歩いてみるといい。自身を失うのは、新しい脳である大脳新皮質だ。その証拠にこの脳が人間ほど発達していないサルは、木から落ちても自身を失わない。何事もなかったかのように、また木に飛びついていく。一方私たちはと言えば、何か失敗をするともう立ち直れないのはないかという気になってしまうことがある。本当はそんなことはないし、やり直しはきくのだが、落ち込む時は、そんな理屈がすっと体に入ってこない。それはそうだろう、頭の同じ部分で考えているだけなのだ。堂々めぐりとはこんな状態のことなのだ。だからこんな時は頭の中の別の部分を働かせる。もっとしたたかで強い本能の脳だ。
本能の脳は大脳新皮質の内側にあるようです。大脳辺縁系とよばれ、記憶や情動もつかさどり、生命の原始的な脳ともいわれています。理性の脳である大脳新皮質は「読み書きそろばん」で発達するのですが、本能の脳である大脳辺縁系は歩くという行為で活性化するというのです。自信を失っても、ただ歩くということだけで、本能の脳が活性化し、何かができそうな自信が再び湧いてくるのです。陰陽でみれば、自信を喪失するというのは陰性なことなのですが、歩いて陽性になると、いつの間にかまた自信という陽性が身につくのです。
精神の核
昨年の正月休み、子どもたちに請われて映画を観に行ったのです。世界的大ヒットアニメ「鬼滅の刃」です。子どもたちの大はしゃぎに付き合う感じで観に行ったのですが、これがまた本当に面白かった。予想を裏切って映画にのめりこんでしまったのです。
「鬼滅の刃」は現代版桃太郎で、いわゆる鬼退治なのですが、全てにおいて凝っている。観ているこちらの心にグイグイ入ってくるのです。私たちが観たのは無限列車編という映画であったのですが、そこに登場する鬼が妖術を使って人間を眠らしてしまいます。眠った人間は、眠りについたまま鬼にやられてしまう。眠ったままだから、痛くも怖くもなく、眠って夢心地のままあの世に送られてしまう。その鬼が言うのです。「人間は心の生き物だ。精神の核を壊せば、どんなに剣術に優れていようが、簡単にコントロールすることができる」。私も「そうだ、そうだ」と頷きながら観ていました。
この鬼の妖術を、主人公である炭次郎が見破るのですが、その見破り方は呼吸を使うのです。呼吸を整えて、夢と現実を見定めるのです。鬼の妖術は夢と現実を混乱させて、人間を鬼の支配下に置くことなのです。この妖術を様々な呼吸を使って、夢は夢、現実は現実という正常な判断力を取り戻すのです。陰陽の見方でいえば、陰陽が混乱してしまったときに、呼吸という陰陽を鍛錬して、私たちの体と心の陰陽を調和させたのだと思うのです。
「全集中の呼吸」というのも「鬼滅の刃」から有名な言葉になりました。足のつま先から全身の隅々にまで呼吸でエネルギーが行き渡った状態を全集中の呼吸で獲得するといいます。全集中の呼吸で私たちの精神の核は壊れずに済むというのです。
精神の核とは一体何でしょうか?
中心軸のない駒は回転しません。中心人物のいない会社や組織は機能しません。種(中心)のない植物も本来は存在しません。すべての生命に核(中心)があります。この核(中心)次第で、駒も会社(組織)も植物も、そのあり様が大きく違います。この核(中心)が壊されていたら、私たちの命はもう壊れているといってもいいかもしれません。
私たちの精神の核というのは、環境によって作られたものだろうと思います。親や先生・先達たちからの影響も大きいでしょう。ご先祖からのエネルギーも膨大です。そして、日々の食べ物が肉体の栄養だけでなく、精神の核にまで時間を通して成長していくのだと思います。植物に種があるように、私たちの心の中心に核があります。しなやかで壊れない、たくましい精神の核は生命力ある食から育まれるのだと思うのです。生命力ある食から作られた精神の核を持っていなければ、全集中の呼吸をしても、精神の核は回復しないだろうと思うし、そもそも全集中の呼吸ができなかったと思うのです。
翻って社会をぐるりと見渡すと、鬼滅の刃に出てくるような鬼の形相の鬼はいなくとも、私たちの精神の核を蝕むものはいかに多いことか。鬼滅の刃がヒットしたのも、世相を暗に表しているからではないかと、私は思ってしまったのです。しかし、炭次郎の所属する鬼殺隊のメンバーのように鬼を殺すだけでは根本的な解決にはならない。鬼にも子がいて、親鬼を殺せば、子鬼の憎しみをかうばかりです。鬼と人間の終わりのない戦いです。
私が「鬼滅の刃」の作者ならば、最後に桜沢如一を登場させます。鬼の食い物を変えてしまうのです。食い物を変えて、鬼の心を変えるのです。鬼と人間の無限ループ的な戦いを食によって革命を起こすのです。簡単なことではないでしょう。簡単でないからこそやりがいがあります。
マクロビオティックは食を通して世界の平和を実現させるものです。まずは私たちの家族から。
「鬼滅の刃」は現代版桃太郎で、いわゆる鬼退治なのですが、全てにおいて凝っている。観ているこちらの心にグイグイ入ってくるのです。私たちが観たのは無限列車編という映画であったのですが、そこに登場する鬼が妖術を使って人間を眠らしてしまいます。眠った人間は、眠りについたまま鬼にやられてしまう。眠ったままだから、痛くも怖くもなく、眠って夢心地のままあの世に送られてしまう。その鬼が言うのです。「人間は心の生き物だ。精神の核を壊せば、どんなに剣術に優れていようが、簡単にコントロールすることができる」。私も「そうだ、そうだ」と頷きながら観ていました。
この鬼の妖術を、主人公である炭次郎が見破るのですが、その見破り方は呼吸を使うのです。呼吸を整えて、夢と現実を見定めるのです。鬼の妖術は夢と現実を混乱させて、人間を鬼の支配下に置くことなのです。この妖術を様々な呼吸を使って、夢は夢、現実は現実という正常な判断力を取り戻すのです。陰陽の見方でいえば、陰陽が混乱してしまったときに、呼吸という陰陽を鍛錬して、私たちの体と心の陰陽を調和させたのだと思うのです。
「全集中の呼吸」というのも「鬼滅の刃」から有名な言葉になりました。足のつま先から全身の隅々にまで呼吸でエネルギーが行き渡った状態を全集中の呼吸で獲得するといいます。全集中の呼吸で私たちの精神の核は壊れずに済むというのです。
精神の核とは一体何でしょうか?
中心軸のない駒は回転しません。中心人物のいない会社や組織は機能しません。種(中心)のない植物も本来は存在しません。すべての生命に核(中心)があります。この核(中心)次第で、駒も会社(組織)も植物も、そのあり様が大きく違います。この核(中心)が壊されていたら、私たちの命はもう壊れているといってもいいかもしれません。
私たちの精神の核というのは、環境によって作られたものだろうと思います。親や先生・先達たちからの影響も大きいでしょう。ご先祖からのエネルギーも膨大です。そして、日々の食べ物が肉体の栄養だけでなく、精神の核にまで時間を通して成長していくのだと思います。植物に種があるように、私たちの心の中心に核があります。しなやかで壊れない、たくましい精神の核は生命力ある食から育まれるのだと思うのです。生命力ある食から作られた精神の核を持っていなければ、全集中の呼吸をしても、精神の核は回復しないだろうと思うし、そもそも全集中の呼吸ができなかったと思うのです。
翻って社会をぐるりと見渡すと、鬼滅の刃に出てくるような鬼の形相の鬼はいなくとも、私たちの精神の核を蝕むものはいかに多いことか。鬼滅の刃がヒットしたのも、世相を暗に表しているからではないかと、私は思ってしまったのです。しかし、炭次郎の所属する鬼殺隊のメンバーのように鬼を殺すだけでは根本的な解決にはならない。鬼にも子がいて、親鬼を殺せば、子鬼の憎しみをかうばかりです。鬼と人間の終わりのない戦いです。
私が「鬼滅の刃」の作者ならば、最後に桜沢如一を登場させます。鬼の食い物を変えてしまうのです。食い物を変えて、鬼の心を変えるのです。鬼と人間の無限ループ的な戦いを食によって革命を起こすのです。簡単なことではないでしょう。簡単でないからこそやりがいがあります。
マクロビオティックは食を通して世界の平和を実現させるものです。まずは私たちの家族から。