「果報は寝て待て」といいます。試験の結果などをハラハラドキドキしながら指をくわえて待っている、さらにはそれが高じて気を患って待っているよりも、寝て待っていたほうが体にも心にもよい、という諺です。しかし、さらに広げて考えると、私たちの生命の秩序を表現した言葉でもあると思うのです。
例えば、病気を患い早く回復したいと願う気持ちは誰にもあるでしょう。回復したいという気持ちがなくては元も子もないわけですが、早く早くという焦り(アセリ)は禁物です。一般的には風邪をひいたぐらいでも病院にいってクスリを処方してもらい飲んでしまう。風邪の症状から一刻も早く逃れたい、ひどくなりたくないという気持ちがそうさせるのでしょうし、社会全体がそれらをよしとしている。しかし本来の生命は治る時がこなければ治らないし、治る状態にならなければ治らない。
風邪ひとつとってみても、治るということは体の掃除がひと段落しなければ症状は治まらないわけです。症状だけ消したところで掃除が済んでいなければ治ったということにならない。せっかく風邪というありがたい反応で体の毒素を体外へ排出しようと細胞や組織に蓄積した毒素を血液に溶け出させて、セキ、鼻水、熱などの症状を出させてくれているのに、西洋医学のクスリは毒素を細胞や組織に戻して排毒をストップさせてしまう。結果、汚れた体をきれいにするという大きな問題(排毒)を先送りしているに過ぎないのです。
「果報は寝て待て」といいますが、「排毒(症状)も寝て待て」というのが生命の秩序です。もちろん食っては寝て、食っては寝て腹いっぱいにして寝ることではありません。少食にして、というよりも排毒の時は自然と食べられなくなりますが、食養的な手当て・自然療法を適切に施して寝て待つということが肝腎ですし、排毒症状の緩和は“待つ”以外にありません。どんな病気でも“待つ”ことは一番重要なことなのです。
将棋の羽生善治さんも将棋の対局で迷った時は、一見意味のないと思われるようなところに「歩」を打って、「待つ」ことが大事だといいます。英文学者でもあった故・外山滋比古さんは文章を書いたら、少し寝かせることが必要だと言います。書き上げてすぐに世に出すのではなく、一晩でもいいから寝かせて、次の日にでももう一度読み返してみることが重要だというのです。一日でも経つと頭が整理されて、客観的な視点が加味されるのです。文章の推敲に「寝待ち」を活用するのです。
病気だけでなく、人生の様々な場面においても「寝て待つ」ことには意味があると思うのです。
ところが、現代では先手必勝とばかりに、待つどころではなく、人間の持つ「転ばぬ先の杖」的な心理を利用したことがあまりに多いのに驚かされます。アメリカの有名な女優がガンになるリスクが遺伝的に高いからという理由で、ガンになってもいない臓器を摘出したというニュースは世間を騒がせました。コロナワクチンにおいても、まだ治験中だというのに、コロナ怖いを煽りに煽って、全国民に打とうとしています。コロナも風邪ですから、罹ることは、その人にとっては必要であったのです。そして、コロナも他の風邪と同様に、体が治る状態にならなければ治らないです。コロナにおいても「果報は寝て待て」ではないかと思います。