田植えの季節

 今年も田植えの季節がやってきました。田んぼに水が入り、水田が少しずつ増えてきます。毎年見慣れた風景ですが、何とも言えない心地よさです。実際にも、心象風景でも、水田は命の源です。
 全国の田園地帯にある小中学校では、昭和30年半ばころまで、田んぼの農繁期に休みを設けていた歴史があります。田植え休み、稲刈り休みを設けて、子どもたちが田んぼの手伝いをするのです。私の父も小学生の頃に、学校が休みなって、田植え、稲刈りを手伝っていたといいます。昭和30年代まで、一家総出でコメ作りに励んでいたのです。昭和30年後半になると、田植え機、稲刈り機などが出現し、コメ作りの機械化が少しずつ普及するようになってきます。現代では、一度に何列も苗を植えられる機械や、刈り取りと脱穀を同時にしてしまうコンバインという機械まであり、大幅な人的省力化を実現しています。
 昔は、刈り取った稲を稲架(はざ)にかけて天日干ししていたものを、現代は乾燥機にかけるのが一般的です。日本人全員が天日干し米を食べることは現代では不可能です。もしそれを実現しようとするならば、かなり多くの人々がコメ作りに関わらないと難しいでしょう。
 農業の機械化は、農作業の重労働から人々を解放して、工業化、商業化、金融化に社会と人を向かわせました。人々はそれを幸福の道と信じて疑わず、ひたむきに走り続けてきました。ところが、幸せの道と思っていたものが、本当だろうか?と考え直さざる得ない状況にあるのが、現代なのかもしれません。便利な世の中ではありますが、病気は多発し、子供が減って、不安と心配の種がつきないのも現代です。「オモテ大なれば、ウラもまた大なり」マクロビオティックを提唱した桜沢如一の言葉ですが、現代はまさにそれです。便利の裏側には、大変なものが潜んでいたのです。
 機械乾燥をしたコメを種にすると、発芽率が落ち、発病率が高まります。機械化は大量生産できるのですが、その種をずっと継承することはできないのです。機械という人工的なエネルギーは、大きな働きがあるのですが、それだけでは命の継承ができません。自然なエネルギーを基本として、人工的なエネルギーは命が継承できるくらいの程度でなくてはならないのでしょう。
 わが家では、手植え、手除草、手刈り、天日干しの稲を種用としています。この種が一粒万倍となって、私たちの命になって、皆さんの命になっています。
 世界のあらゆる文明は、水があり穀物があるところに発生しています。日本を瑞穂の国といいますが、世界の文明の基本は、水と穂(こくもつ)ですから、日本だけでなくあらゆる国は本来、「みずほ」の国であるはずなのです。その中でも特に、日本は水に恵まれ、穀物に恵まれた風光明媚な風土です。
 コメ作りは命を継承していくことですから、教育の根本と言ってもいいでしょう。人間が穀物から離れたら、命が継承されない、そんな事象を至るところで見てきました。日本人がコメを食べなくなったら、腸が本来の働きをせず、遺伝子も活性しないのです。
 田んぼは命の生まれる場所です。田んぼに支えられる虫や動植物も無数にいます。田んぼこそ、自然と人間の最高傑作と言っても言い過ぎではありません。神事の中心もコメ作りから来ています。まもなく始まる大相撲も、原点はコメ作りにあります。
 日本人にとってもっとも大事なコメ作りがこれから本格化する、いい季節になってきました。

共感と競争

 春は卒業や入学の季節でもあります。現代の日本人は、物心ついたときから、春は人生の仕切り直しの季節になってきました。暦(旧暦)の上での春は、太陽暦の一月下旬から二月上旬ですから寒さもあって、まだ強く春を感じることはできません。春爛漫はやはり、桜の咲く三月下旬から四月上旬の卒業と入学の季節です。
 先日、娘の卒業式に参加してきました。桜の開花にはまだちょっと早かったのですが、娘にとっても親にとってもよい仕切り直しになりました。学校生活は数年間と短い時間ですが、人生を駆け出したばかりの子どもたちにとっての数年間は、大人にとっての数年間よりもずっと濃い時間であったと思います。この濃い時間の中で子どもたちは、生きていく中での大事なことを陰に陽に学ぶのです。
 人は本能的に競い合うことが好きです。かけっこや相撲取り、メンコやベーゴマ(古いですが)など、友達どうしで競い合う遊びは競争の原点です。競い合うことはおもしろいものです。むしろ、競い合わない遊びは、特に男にとっては、あまり魅力のないものかもしれません。もちろん、子どもの性質によっては競争を好まない子もいます。人と競争するよりも、自分の世界に没頭していった方がいい、という子もいます。この性質や性格も陰陽です。
 学校生活でもこの競い合いがもちろんあるわけです。徒競走や持久走など、体育では目に見える競争をするわけですが、数学や理科、社会などの一般教科でも点数を競い合って競争をしているのです。部活動においても、多くの部活動では競争が多分にあるのです。一方で、競争とは対極にある共感もまた、学校生活には沢山あります。友達との関わり合いはむしろ、競争よりも共感の方が強いかもしれません。友達どうしの触れ合いで競争が主であったら息苦しいものです。共感があるからこそ一緒にいて安心感が湧くのかもしれません。
 この共感と競争は陰陽の関係にあると、私は思うのです。共感力と競争力をともにバランスよく持つことが人間力に繋がっていくのではないかと思うのです。
 共感力とは、他者の感情を読む力でもあり、相手の立場になって考える力でもあります。自分と他人の境を薄くして、他者に溶け込む力でもありますから、私は陰性の力が共感力ではないかと思うのです。一方で競争力は、相手よりも一歩先に行く力、相手よりも深く、または高い所へ踏み込んでいく力です。時には、他者を蹴落としでも自分が行く力が競争力です。陰性な共感力に対して、競争力は陽性ではないでしょうか。
 人類の歴史を振り返ると、この陰陽相反する二つのエネルギーがあったからこそ、人類は生き延びてきたのです。競争力という陽性なエネルギーで厳しい環境を克服し、共感力という陰性なエネルギーで厳しい環境を助け合って生きてきたのです。
 私の今までの食養生活の大半は、子どもたちとの生活が中心にありました。そこに体質改善を求める人たちが来られて、その人々との生活が私の食養生活の中心になっています。子どもから大人まで、多くの人々をみてきて、人間の本能である共感と競争を調和的に成長していくことこそ、生きる上でとても大切なことだと思うのです。
 潰瘍性大腸炎を抱えた青年が道場に来た時です。最初はその青年と私の二人きりでの生活だったのですが、その後、食養合宿がはじまり、何人もの人が合流しました。その中で同世代の女性も参加していたのです。きれいな女性でした。潰瘍性大腸炎の彼もまんざらではない感じです。私と二人きりでの生活の時には感じられないエネルギーを彼は発するのです。朝、二人だけの時は私が彼を起こすのですが、彼女たちが参加してからは自分で起きてくるのです。女性に触れあったことで、彼の中の競争力が自然治癒力に火をつけたのかもしれません。感動、感謝、感激という感情は、共感力や競争力を高めようとした行動から生まれたものではないかと思います。
 春は人生の仕切り直しによい季節です。人生を振り返って、共感と競争、自分はどちらかに偏ってきてなかったどうかをあらためて考えてみるにもよい季節です。