潰瘍性大腸炎の治療に来た青年が「いつになったらラーメンやカレーやカツどんを食べることができますかね」と私によく聞いてきた。彼はラーメンやカレーやカツどんが大好物であったのだが、潰瘍性大腸炎になってそれらを食べると腸の調子が悪くなることを知った。それを知れただけでも意味のあることなのだが、それらの味にまだ未練があったのだ。
西遊記に出てくる孫悟空の頭にはめられていた輪っかのことを、緊箍児(きんこじ)という。孫悟空が悪さをすると、師匠の三蔵法師が呪文を唱えて孫悟空の頭にはまっている緊箍児を締め付けるのだ。孫悟空はたまらず、反省せざるを得ない。ウソをついたり悪さをすると頭が締め付けられるわけだから孫悟空はたまったものではない。
しかし、よくよく考えると、誰にでも孫悟空の緊箍児のようなものがあるのではないかと思う。潰瘍性大腸炎の彼も、潰瘍性大腸炎が孫悟空のもつ緊箍児のようなものであった。ラーメンやカレーやカツどんが悪いというのではないのだが、彼にとってはラーメンやカレーやカツどんは腸に負担のかかるものであったから、緊箍児がそれを教えてくれた。
孫悟空の頭にはめられた緊箍児は、私たちにとってのそれはひとつには病気であるのかもしれない。病気は生き方・食べ方の間違いを教えてくれるものである。その病気をクスリや手術などで取り去ってしまって本当にいいのであろうか。痛い、痒い、怠いなどの症状を早く消したいと思うのは人の常である。しかし、痛い、痒い、怠いなどの症状の原因を取り除かなければ、根本的な治療にならない。
私は潰瘍性大腸炎の青年に、「ラーメンやカレーやカツどんは、それらを食べたくなくなったら、食べても大丈夫だよ」と言った。脂肪と添加物たっぷりのラーメンやカレーやカツどんで造られた細胞をたくさん持っているうちは、そのような食べ物を欲してしまう。「類は友を呼ぶ」というが、私たちの食の欲求もそのようなところが多分にある。中毒的欲求というのがそれに当たる。
自分の緊箍児=病を知るというのは意味のあることである。自分の体と心の特性を知れば、生きやすくなる。ところが、私たちは自分の顔を、鏡を通してでしか見ることができない。自分の実際の顔は、自分では見ることができない。自分の顔は、実のところ他者にしか見ることができないのだ。
自分の本当のところは、他者を通して知ることが多いということではないかと思う。自分というものは他者を通してでしか知ることができないものもある。孫悟空も三蔵法師を通してでしか気づくことができなかったことも多い。人は関係性の中で生きている。
自由ということは、勝手気ままに生きることではないと思う。自由とは、自分を知り、自分の生きたい生き方を、歩むことにあると思う。行きたい場所に行けるのが自由であり、生きたい生き方を生きるのが自由である。自由は簡単なことではないけれど、辿り着いてしまえば、あっという間のことでもある。
自分の緊箍児を知れば、緊箍児そのものも決して怖いものではないことも知る。覚悟があれば、緊箍児も嫌な働きはせず、私たちに多くのことを教えてくれるのではないかと思う。