望診法

 「先生にお会いするのは正直怖かったです」という人が時々いる。望診法のことを知っている人なのだが、私に自分の顔を見られて、欠点を指摘されるのではないかと戦々恐々としていたというのだ。
 望診法というのは、人相や手相でその人の内面を探りだすことにある。人相や手相に血液や細胞、内臓の状態が表れる。心身一如であるから、心の状態も人相手相に表れる。自分では意識していない、潜在意識も顔や手に表れる。そのことを知って、望診・食養相談を受ける人は、自分の欠点をこれでもかというくらい列挙されるのではないかと思って怖かったというのだ。
 ところが、いざ来てみたら、自分のよい所を誉めてもらって、「うれしくてうれしくて、飛んで跳ねるような気分になった」という。
 人相や手相には、上相・中相・下相がある。上相というのは、周りの人にいい氣を発していて、見ていて癒されるような、そんな気分にさせてくれる。赤ちゃんの笑顔を見ると気分が良くなるのは、そんな赤ちゃんの顔は上相の氣を発している。和顔施(わがんせ)といって、お布施の中の最も高貴なものは笑顔だというのは、自然な笑顔は上相である所以である。
 実はどんな人も、その人の中には上相・中相・下相を持っている。どんな悪人であっても、すべてが下相ということはなく、ほんのわずかでも何らかの上相を持っているものである。今、世間を賑わす、兵庫県知事は、私の目から見たら上相がたくさんある。いい人相をしている。マスコミが揃いもそろって大バッシングしているけれど、実際の仕事は兵庫県政の大改革をしていたわけだ。ある情報によると、神戸港湾の利権にメスを入れたことが今回の騒ぎに発展したという。(このコラムは2024.9.30に書いていました)
 人相はウソをつかない。人相や手相はウソをつけない。
 兵庫県知事を持ち出して恐縮だが、人相に上相がたくさんあるのであるが、それでも線の細さは否めない。私も含めて現代人は、若い人になればなるほど線が細くなる。線が細いというのは、言葉通り、顎や首が細いことを表す。望診では昔から、線が細いのは大事を成さない、と言われて、大事業を完成させることは難しいといった。ところが、人はハンマリング(叩かれる)を受けることで、線が太くなる。兵庫県知事は、あれだけのハンマリングを受けても、引かずに立ち向かっていく。今はまだ線が細くても、今のハンマリング(叩かれること)できっと大人物になるはずである。
 一方で、周りの人に嫌な気をまいたり、不安にさせたり、心配させたりするのを下相という。恐怖感を抱かせることも下相である。下相がまったく無いという人は聖人君子以外にはなかなかいないが、それでも下相の顔がちょくちょく出てくるのは問題である。顔色がわるく、血色がうすいのも下相である。よい血液が流れていないことが下相である。
 和道にちょくちょく来る人で、手の指の爪が全指黒色になっていた人があった。70代後半の女性であった。手の指の爪がすべて黒色になるのは、死相といって、死が近いことを表している。ところが、和道に毎月のように来て、生姜シップで手当てをして食を正しているうちに、少しずつ黒色が薄くなってピンク色が出てきた。高齢なので、家での食事は完全に食養はできなく、和食を心がける程度であった。それでも、毎朝欠かさずくず湯をとっていた。
 自分の出来ることを日々コツコツと実践していたら、齢80を超えて、死相が消えたのである。今でも毎月のように会っているが、日々血行が良くなっている。人は高齢になっても、小さなことでも日々の精進を怠らなければ、下相を上相に変えることができるのである。
 下相を上相に変える日々の実践を中相という。中相というのは日々の精進・努力のことをいう。努力は天才に勝るとよくいわれるが、これは中相の極意である。人相でも上中下というと、中相は中間の相と思われがちであるが、中庸の相である。特別な能力を備えることを中相というのではなく、ダレでもできる日々の小さな実践をコツコツ続けていくことが中相である。
 人相や手相だけではない。言葉や立ち居振る舞い、家やその場の雰囲気にも上相・中相・下相がある。日々の中相の実践で、上相が大きくなり、下相が小さくなる。そんな日々を送ることそのものに大きな意味がある。

食養料理と手当てのバイブル

 「お小水が出なくなってしまいました」と電話があったのが、私が食養指導に関わりだした当初のころである。師の大森英桜の傍らで食養指導を学んでいた時であった。食養では利尿作用として、第二大根湯(大根おろしの汁を2~3倍の水で薄めてパッと温めたもの)、小豆の煮汁、とうもろこしのひげ根の煎じ汁などを活用するのであるが、どれを試してもお小水は出てこないという。
 お小水が出なくなってなんと9日も経つという。その間、いろいろな飲み物も試したので、体はパンパンに浮腫んでしまっていた。尿毒症になってしまっていたのかもしれないが、力が入らず、意識もうつろな状態にまでなっていた。
 そんな時に大森の指導は、「小豆と鯉を一緒に煮て食べろ」という。食養料理では「小豆鯉」というが、小豆と鯉を一緒に煮合わせたものである。お小水が出なくなった人が早速、家族に鯉を調達してきてもらって、小豆と一緒に煮合わせて食べてみた。そうしたらビックリ、お椀一杯食べただけで、お小水がタラタラと出始めるようになった。時間をおいてもう一杯食べたら、もっと出るようになった。小豆鯉を日に三杯、3日続けて食べたら、普段のお小水に戻っていった。食養の力に驚いた。
 その後、食養指導をしながら、小豆鯉が登場することはめったになかった。腎不全でも、第二大根湯と生姜シップ(お腹や背中に)でほとんどの人が腎臓が温まってお小水の出が良くなる。血行不良がひどく、冷えの強い人には第二大根湯に生姜汁を加えて飲んで、生姜シップを念入りに2~3時間すると腎臓が活性化してくる。これを何日も続けるのだが、ネフローゼの少年で2週間ほどこの手当て法を実践して腎不全を改善した例もある。
 小豆鯉はどのような人に効くのであろうか。
 お小水が出ないというのは、汗が出ないのと同じように陽性である。体に溜まったものが外へ出ていかないわけであるから、体に求心性の陽性な力が働いて水分が出て行かなくなっている。そんな状態の人には陽性な毒素を溶かす大根や生姜を活用する。
 鯉は川魚であるが、動物である。お小水が出ないという陽性な状態になぜ動物という陽性を使うのであろうか。
 大森の説明は、鯉は動物性の中でも陰性な方で、陽中の陰という位置にあるという。そして、腎不全が進行し、陽性であっても体力が低下し、陽きわまって陰になった状態では、鯉の陽性さ(植物性に近い陰性さのある)が功を奏すという。実際に、腎不全が進行すると、体力が低下し食養の五つの体質でいう「陰性の萎縮」になってしまうことが時にある。そんな状態の人には動物性食品も必要になる。
 小豆鯉は穀菜食Bookの中にも登場する。数少ない動物性の料理のひとつである。
 穀菜食Bookはその名の通り、穀物と野菜(海の野菜・海藻料理も)の料理が中心である。日本人は特に、穀物と野菜と海藻、そして風土に合った発酵食品で元気に暮らしていくことができる。だが時に、陰性が強くなった時には身近な動物性の陽性が必要な場合もある。陰陽の目を持って、体の陰陽に合わせて食事をして、症状の陰陽に応じて手当てをしていけば、自分が自分の医者になることができる。医療の自給自足ができる。穀菜食Bookは「自分で自分を治すバイブル」である。
 自然治癒力というように、治癒力というものは自然に湧きおこってくる以外にない。病気は医者が治すのではなく、体の自然性が治しているのである。その自然性を引き出すコツが穀菜食Bookに詰まっている。

マクロビオティックを続けるコツ

 「マクロビオティックを無理なく続けるコツって何ですか?」と尋ねられることは少なくない。
 マクロビオティックな生き方が板についていると、こういう質問にはパッと答えられないのだが、マクロビオティックを続けている家庭とそうでない家庭を数多く見ていると、わかることがある。
 人が継続できることは「おいしい、心地いい、気持ちいい」ことである。その逆を続けることは、なかなか難しい。武道やスポーツ、学問を極めた人たちであっても、嫌なことを無理やりに続けてきたのではなく、辛いことはあっても好きなことを続けていったにすぎない。人間は理性の生き物であるが、生きものとしての本能はどこまでいっても持ち続けている。新聞ニュースをにぎわす人間模様を見聞きしていても、やはり人間は動物的な本能が優位な生き物だと思わざるをえない。
 マクロビオティックを無理なく続けるコツは、とてもシンプル、「おいしいごはん」である。自分だけでなく、家族も、「マクロビオティックのおいしいごはん」を食べていたら、ほかの料理にいって帰ってこないなんてことはない。子育てにおいて、子どもたちの「未知のものを知りたい」という欲求は人間の本質的なものであるから、マクロビオティックで育ってきた子どもであればなおさら、一般的な食事に強い関心を持つ。肉、卵、乳製品、魚、砂糖や人工甘味料を使ったスイーツや飲み物が簡単に手に入る環境であれば、それらを食べてみたいと思うのは、正常な感覚である。
 私は子育てをとおしても多くのことを学んできた。子ども達の感性と感覚は基本的には正しい。その感性を潰さず、スクスクと伸びることを見守ることは、やはり体にも心にもやさしい「おいしいごはん」を作ってあげることだと思う。
 わが家には6人の子がいる。上の子はもう21才。19才、17才、14才と続いて、下の子二人はまだ小学生である。上の子3人はかなり厳格な食養で育てた。家でも外でも完全菜食にこだわっていたから、年に数回ある外食はすべて蕎麦屋。それも自前の醤油を持ち込んで食べていた。学校にももちろん弁当を持たせていた。私たち夫婦はそれが「正しい」と思っていたから、子どもたちは何か違和感があったようだが、それを言えなかった、らしい。21才の長女と当時のことを話すと、蕎麦屋に醤油を持っていったのが「すごく嫌だった」と、笑い話になっていて救われた。
 上の子たちは、私たちに隠れて、外のものも食べていた。特に甘いお菓子は「やばいくらい、うまかった」らしく、コンビニの店員さんと仲良くなるくらい通っていた、らしい。男の子は隠すのがヘタで、タンスの奥からカビの生えた菓子パンや食べかけの菓子がニオイと一緒に発見されたりしたから、知っていたが、女子たちのそれはよく把握していなかった。女はこわい。。。
 高校生にもなると、友達と外食の機会も増えるから、菓子だけでなく、動物性も食べる機会も増えてくる。次女は中学生まで動物性が一切食べられなかったが、高校になって、少しずつ食べる機会が増えてきたら、いつの間にか食べることができるようになってきた、らしい。友達と一緒にファミレスなどに行って、ニオイを嗅いでいるうちに慣れていったのかもしれない。
 上3人は完全菜食のマクロビオティックで子育てをしてきた(小学校高学年くらいから少しずつ買い食いが増えてきたが)。体は元気で、スクスク育ってきた。ただ、友達との付き合いや関係性を上手に築けたかというと、なかなか難しいものがあった、らしい。それでも、子ども達は、自分の体と感性に誇りをもっている、のがよくわかる。
 学校生活での嫌な思い出もあるが、「マクロビオティックのおいしいごはん」が自分の基礎になっていると言っている。妻の作る食養料理を子どもたちはいつも「おいしい」「おいしい」と言って、よく食べていた。中高生になって外の味も覚えてきたが、それでも家のご飯が一番おいしいと言っている。今でも家のご飯以上に美味しいものは食べたことがない、という。妻のごはんの基礎になっているのが、大森一慧先生のごはんである。一慧先生のごはんを一番わかりやすく伝えているのが穀菜食Bookだろうと思う。

ジャネの法則と陰陽

 ついこの間、正月を祝ったような気もするが、もうふた月もすればまた次の年だから、光陰矢の如し時が過ぎるのは早い。近所の人との立ち話でも、時が過ぎるのが早くなったという会話はすでに常套句になっている気がする。なぜ私たちは年を取れば取るほど、時間の流れを早く感じるのか。
 フランスの哲学者、ポール・ジャネの時間に関する説は明解だ。
 「心理的な時間の長さは、これまで生きてきた年数の逆数に比例する(年齢に反比例する)」という。逆数とは0を除く数を1で割ったもの。5の逆数は5分の1、8の逆数は8分の1となる。同じ1年でも、10歳の子どもの頃に感じる時間の心理的な長さは50歳の頃に感じるそれと比べると、1/10対1/50で、5倍も長く感じられるという。50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるが、10歳の人間にとっては10分の1に相当する。50歳の人間にとっての5年間は10歳の人間にとっての1年間に当たり、50歳の人間の5日が10歳の人間の1日に当たることになる。10歳の人間の1日は、50歳の人間の5日間に相当するわけであるから、50歳の人間に比べると10歳の人間の1日は「濃い」ことになる。逆にいうと、50歳の人間の1日は10歳の人間の1日に比べると「薄い」ということになる。
 生きてきた年数によって一年の相対的な長さがどんどん小さくなることによって、時間が早く感じるというわけだ。
 陰陽で考えるとさらにおもしろい。心理的に感じる時間の長さはその人の陰陽の度合いによるということでもある。動物は陽性で生まれ、陰性で死んでゆくとマクロビオティックでは捉えている。ちなみに植物は陰性で誕生し、陽性で終わりを迎えると捉えている。
 子どもは大人に比べて陽性と考える。陰性になるほど時間の感じ方が短くなってゆくといえる。気が長い人は気短な人に比べ陰性である。瞬発力という陽性は年とともに衰えていくが、思慮深さという陰性は年とともに増してゆく。ジャネの法則は陰陽の法則ともいえる。
 時間の心理的な長短は、人間個人だけでなく、個人の集合体である社会や文明にも当てはまるのではないかと思う。
 昔の原始的な生活は、暖をとるのにも薪をあつめて火をおこし寒さを凌いでいた。これは私たち人間が体を動かすことで陽性化し、寒いという陰性な環境に適応していた。ところが、現代文明は物質文明といわれるようになり、私たちの日々の生活は石油や電気エネルギーに依存している。太陽光、風力など自然エネルギーもあるが、人の力を介さないエネルギーという点ではどんなエネルギーも人を陰性化させる。エネルギーに依存した生活は一見便利ではあるが、人間の体をどんどん陰性化させる。
 私たち現代人は、運動不足で体は陰性化させられているが、情報社会の中で脳にはさまざまな情報が詰め込まされて、脳は陽性化させられているように思う。脳は陽性に凝り固められているから、パソコンやスマホがないと情報を取り出せない、ということにもなっている。
 人間の体を陰性化させる物質文明は、年相応の時間よりもずっと多くの時間を私たちから奪っているともいえる。時間ドロボウから時間を取り戻すには、人間本来の生き方を探求すること以外にないのではないかと思う。

命を磨く習慣

 習慣とは大事なものだと思う。習慣化されたものは、いつでもどこでも出てくるものだ。英語を話す習慣のある人は、どこであっても自然に口から英語が飛び出してくる。掃除の習慣のある人は、どこにいっても身の回りをきれいにすることができる。旅先の宿でも、部屋をきれいに使うことができ、帰る時も掃除が必要ないくらいである。
 体の習慣も同じように、笑顔の習慣がないと自然に笑顔が出てこない。顔の筋肉も、他の筋肉と同様に、日々習慣的に使っていないと硬くなってしまう。ニコッと笑う習慣が身についたならば、顔の筋肉は柔らかくなり、肌の血行もよくなり、若返り、美人となる。
 多くの人の望診(食養相談)をしていて、笑顔の習慣のある人は肌の艶がよく、キレイで、笑顔の習慣のない人にシミそばかすが多いのに気づいた。笑顔になることによって顔の血行がよくなり、シミもそばかすも消えてゆくのだろう。もちろん血液がキレイであるから血行が良くて笑顔が絶えないということでもある。笑顔と血液循環は相関的なものだ。
 この夏、フランスで五輪が開催されたが、各競技で表彰台に立つ人たちも、顔の艶がよくキレイで均整がとれている。運動選手は体を動かすことが習慣化しているから、血液循環はよく、「流水腐らず」のように、キレイな血液が流れているのだろう。
 笑顔は最大のお布施といわれる。笑顔は人によい気分を与える。周りの人だけでなく、実は自分自身に最大最高の健康と幸福をもたらせている。作り笑いでもあっても、笑うとホルモンが活性化するのだ。まさに「笑う門には福来る」である。笑顔ひとつみてもこの世とは自他一体であることに気づかされる。笑顔で幸福を与えていながら自分に返ってくる健康と幸福。なんと素晴らしいものだろう。
 食を調えてキレイな血液を流したならば、笑顔が自然に出てくるのだが、凝り固まった顔の筋肉を解すのは簡単なことではない。作り笑顔でもよい。笑顔は血流を良くするマッサージのようなものであるのだから。体が本当にキレイになったならば意識せずとも笑顔が出てくる。同時に本当にキレイになったならば意識せずとも調和的な食事ができるようになる。笑顔もまったく一緒、作り笑顔がそのうちに本当の笑顔になってくる。
 詩人の坂村真民さんは「念ずれば花ひらく」という。想いは必ず通じるということ。想っておもって、想い切るとかならず行動に現れる。私たちの行動はみな想いに裏付けられている。楽しいタノシイ想いをもって行動すれば軽やかな行動になるが、嫌だなーという想いを抱いて行動したならば足に重しをつけたような行動になるだろう。仕事を楽しんでやれたならば有形無形のすばらしい報酬があるが、嫌々ながらの仕事では何の報酬もないばかりか、かえってその人の不平不満を増幅させて心身とも疲弊してしまう。
 この世は損得を超えたまったくの平等の世界だと、歴史や多くの人の人生を見ているとそう思わざるをえない。ミクロにみるとこの世は平等には見えないが、マクロに大きく大きくみるとまったくの平等の世界とわかる。
 私たちは想念のとおりの人生を歩んでいる。想念以外のことはおとずれないといってもいいくらい、想い通りの人生を歩んでいる。その想いは意識と無意識に関わらないものだから、一見すると思いの外の現実も多々ある。想定外とは、そもそも意識的な思いの外のことをいっている。この世は意識と無意識、それに超意識(宇宙意識)によって成り立っている。この三つの意識がすべてつながると、人生は想い通りの道を歩むこととなる。私たちの意識と無意識、超意識を通りの良いものにするには、食と生活を調え、この世とは自他一体であることを想い実践する心の鍛錬が必要なのではないかと思う。真民さんの「念ずれば花ひらく」を実現するにはマコトの生活をコツコツと歩んでいくのが一番の近道のようだ。

心と宇宙をつなぐ夢という橋

 西洋でも東洋でもその昔から、夢を体や心の深層状態をあらわすものと考えられてきた。フロイトの夢判断は、心理学でも大きなひとつの柱になっている。一方、「夢は神仏のお告げ」という考えが東洋にはあった。自分という枠を超えて夢をとらえていたのである。
 食養の大先輩で大阪の正食協会で活躍した故山口卓三先生が『陰陽でみる食養法』(正食協会)の中で桜沢如一先生の逸話を紹介している。
 「一人の老人が若者に向かって、昨夜、わしはお前がわしの畑の南瓜を盗んだ夢を見たのだよと語ったとします。するとこの若者は、とたんに血相を変えてとび出し、やがて両脇に二つの南瓜を抱えてもってきて、これをお返ししますからどうぞ堪忍してください、という。もしかしたら、多くの人がなんてバカな未開人のメンタリティだろうと思うかもしれません。しかし、わたしは、こんなすばらしい生き方はないと思うのです。なぜかというと、この人たちは夢をすらそのまま現実と思うほど真実を生きているからです。みなさんだって、人から思いもよらぬ疑いをかけられたとき、『とんでもありません。夢にもそんなこと考えたことありません』というではありませんか。日本人もまた、夢と現実とを一つにして見る見方をなしうるのです。日本人はそのことを理解しうる未開人的要素をもっています。けれどもいまは、日本人もおおむねこれらの人を未開人として一段見下げた文明人の意識を強くもっているのです。この未開人の精神構造をよく理解しなければなりません」
 夢を現実のものとして素直に受け入れることは何と素晴らしことかと思う。私たちは本質的にはウソはつけない。どんなウソをついても顔に出るのが人のサガであるのと同じように、敏感な人は夢から陰陽さまざまなお告げがあるようだ。
 夢からのお告げとして、例えば、水が出てくる夢では腎臓に負担がかかっていることを暗示している。高い所から落ちる夢を見るときも腎臓への負担を暗示し、さらには膀胱への負担も暗示する。他人から、または得体の知れないものから追われている夢を見るときは肝臓の負担を示す。走っても走っても進まない、そんな夢もあるが、これは腸に不消化物がたくさん溜まっている時によく見る。
 夢は眠りの浅い時に見ているといわれる。眠りが浅いから覚えているともいえる。眠りが浅いということは身体に溜まった老廃物がたくさんあるということだから、夢は不健康状態への警告と考えられる。一方で正夢というものもある。正夢は深い眠りのときに見る夢である。深い眠りのときに見た夢を覚えている、その記憶力がバツグンでないと見ることのできない夢でもある。もっといえば眠り自体がひじょうに深く、それも短時間の眠りでないと正夢は見られない。床に就いたら数秒で眠り、日の出前にはパッと起きる。寝ている間も微動だにしない。そんな状態が日々続くような人は正夢を見られるかもしれない。深い眠りは、少なくとも胃は空っぽの状態、腸もそれほど動かなくても良い状態でなくてはならない。
 その昔、人間は暗闇の夜には食事をしなかった。炎や電灯がなくて食物が見えないということもあるが、食事をして身体を緩めすぎてしまうと、肉食動物などの危険動物からの危険に対応できないということを知っていたから。夕食は早い時間帯に越したことはない。暗くなってからする食事は夜食であり、まだ薄明るい時間の夕方に食するから夕食なのだ。「一日三度の食は獣の食、一日二度の食は人間の食、一日一度の食は神の食」という言葉がある。一日一度、それも必要最小限の食事になったならば、胃腸の負担はなくなる。「聖人の見る夢は正夢」というのは、一日一度の必要最小限の食から来るものだと思う。

夢は体と心の素直な表現

 明るい昼間は視界が広いため、意識も行動も外へ外へと向かう。一方、夜の暗闇は様々なエネルギーが自分の内面へと向かう。明るい陽性な環境では陰性な外へ向かう力が優位となり、暗い陰性な環境では陽性な内へ向かう力が優位となる。これが自律神経の働きで、昼と夜、陰陽それぞれの働きが違う。
 夢もまた自らの内へ向かう大きな力・エネルギーのひとつではないかと思う。
 私たちの体は日々、タンパク質の入れ替えを行なっているといわれる。体重60kgの人で日に200~300gのタンパク質が入れ替わっているともいわれる。その計算だと1年も経たずに全身のタンパク質が入れ替わってしまう。理論上は300日で生まれ変わりも可能ということになる。しかし、この300日で細胞が入れ替わるという説はラットでのことである。小さな体の陽性なラットだから300日で細胞が入れ替わってしまったという理論を人間に当てはめた場合のことのようだ。実際、人間はネズミよりもずっと陰性で、代謝スピードも遅いので、すべての細胞が入れ替わるのにラット以上の時間がかかるだろうと想像できる。ラットの寿命は1~2年といわれるが、そのラットが約300日で細胞が入れ替わったということは、人間に当てはめたら人間は生きている間に1~2回くらいしか細胞が入れ替わらない、という計算もできてしまう。
 長年、食養指導をしてきて感じるのは、人間の場合は多くの細胞が入れ替えるのに10年以上はかかるのではないかと思っている。「10年一昔」といわれるように。
 そして、体の内部の変化は主に、夜起こっている。その内面の変化の一端が夢でわかる。人はさまざまな夢を見るが、その中でも過去のことを集中して夢に見るということがある。中学生時代のことが連続して夢に出てきたり、幼少時代のことばかり夢に見るなんてことがある。そんなときはその当時に作られた細胞がその夜に代謝している。
 過去の一時期のことを集中的に夢に見るという現象はめずらしいことではない。まして食養を実践していると体の変化は絶え間なく、新旧の細胞が常に交代するので、過去の食生活で作られた細胞が今の食生活で作られる細胞と入れ替わる。この入れ替わりの変化が激しいときに、かつ入れ替わる古い方の細胞が持つ情報が夢になって現れる。おもしろいことに、古い細胞が分解排毒され、その古い細胞が持っていた情報が夢に現れてから数日後に実際の体で排毒反応があらわれる。私自身も夢と排毒の体験をしたことがある。
 中学2年の夏、昼休みに友達と箒(ほうき)でチャンバラごっこをして遊んでいた。箒(ほうき)の掃く方を相手に向けてチャンバラをしていた。友達の振り下ろした箒の先が私の顔に当たろうとした。私はサッと後ろに身を反って顔はなんとか避けたのだが、首筋に箒の先がスーと走った。その瞬間、全身がゾクゾクとしたかとおもうと、体に発疹が現れた。首、ひじの内側、顔の順に広がり、アッという間に全身が赤いポツポツだらけとなった。顔などは形が変わるほどひどい状態となってしまった。痒みはそれほどではなかったのだが、見た目の悪さで恥ずかしくて学校に居られず、飛んで帰ったことを記憶している。
 時が経ち、食養をはじめ、ある時、中学時代の夢を連続してみる日が続いた。そして、夢を見るようになって1週間が過ぎようとした時、体に突然発疹が現れた。そう、あの時と同じような赤いポツポツ。驚いた。箒でチャンバラをして発疹が出てきたことも夢に出てきた。夢と体はつながっていると強く感じた。夢は体の素直な表現であったのだ。

食からわかる命の本質

 食とは何かをあらためて考えてみた。
 人は日に何度も食べものを口に運ぶ。口に入った食べものは体の神秘的なハタラキによって人の細胞に変化する。この世に生まれてこの方、一切の食を摂らずに生きている人は誰もいない。例外なく人は食物を食べている。
 ある昼下がり、私は弁当を食べながら、食とは一体なんだろうと、しみじみと想った。
 そう、食は人が自然や社会、まわりの人々とつながっていることを一番身近で教えてくれている。食物を育てる人、流通する人、加工する人、販売する人、料理をする人、そして食べる人。みな食物・食品を通じてつながっている。
 繋がりはもっともっと深い。食物は土と太陽と水の産物だから、人は土にも太陽にも水にもつながっている。太陽は地球に不断に光を降り注いでいる。大地は何億年をかけて地球の中を隆起しては沈降してを繰り返している。まさに壮大なる陰陽で大地は動いている。水は大地よりもずっと速いスピードで世界を巡り、さらに早く天地を巡っている。
 自然は常に絶え間なく変化する。変化の流れの中から生まれた食物によって私たちは命を繋いでいる。この世はすべてがつながっている。自然界に壁はなく、今ここでも、皆さんのいるそこでも、同じ空気が流れている。呼吸は空気を通じてみなが繋がっていることを教えてくれる。人は出会った時に握手をしたり、ハグをしたりする。これも私達生命はみなつながっていますよ、ということ。
 人と人の出会いや結婚はめでたくうれしいことであり、人の別れ、離婚や離別は辛く悲しいことである。人は一体性に幸せを感じ、分離性に不安を感じるのも、本来の命はすべて、ひとつであったことの表れではないかと思う。
 食はすべてが繋がっていることを様々なことで教えてくれる。健康であれば、人が自然と正しくつながっている証拠。一方で病は、自然と正しくつながっていないことの警告である。自然との正しいつながりを健康と病が教えてくれているわけだから、病と闘ったり、病を排除しようという姿勢では決して本当の健康が訪れない。
 食が正しければ、この世はすべてが繋がっていることが体感できる。自他一体がこの世のマコトの相(スガタ)と食から教わることができる。もちろん食からだけでなく、呼吸からも掃除からも家事からも、どんな仕事からだって知ることができる。どんなことからもすべては繋がっていると体感できる。
 言葉からでもそれがよくわかる。相手を潰そうとか貶めようとする言葉は周りを嫌な気持ちにする。しかし、相手を思いやった言葉、慈しんだ言葉には、周りの人を幸せにする力が宿る。神道の祝詞や仏教のお経には、人々を幸せに導く力がある。キリスト教の聖歌や聖書の言葉にも、人々を導き気づきを与えてくれる力がある。イスラム教のコーランも人々を幸せに向かわせる力がある。食に身土不二があるように、宗教にも身土不二があるから、自分にとって相性の良いものがよい。
 食においても、宗教においても、周りの人と比べて争うことはない。ただ自分の道を歩いていくことに意味がある。

夏の断食

 和道では毎年、梅雨明けからお盆過ぎまでは断食合宿は休みにしている。盛夏の時季は、連日35度以上になるので、休養を兼ねて断食合宿は休んでいた。今年はお盆前の最後の断食を7/2~7に行った。梅雨明け前に35度以上が連日ということはなかなかなかったと思うのだが、今年はちょうど合宿の時に連日35度以上になる猛暑になった。猛暑の日中は動かなくても汗が出る。
 断食で大事なことは、「噛む、動く、温める」ことである。
 ごくわずかの玄米粥を徹底して噛む。徹底して噛むことで、唾液腺を刺激し、閉じていた唾液腺を開放する。唾液には細胞を修復する力があるから、断食中に唾液がよく出ると、消化する必要がないからその唾液は胃腸の粘膜の修復に活用される。
 体は、動いて温めることで活性化する。人間はどこまでいっても動物であるから、動かないとダメである。動かない人間は、体のどこかに毒素が溜まって、命を全うできないことは多くの人を観ていて確信している。断食でも、動かないと排毒がうまく進まない。
 体は動かせば温まるのであるが、現代人の多くは低体温になっているので、あえて「温める」ことをしないと代謝は活発化しない。和道では生姜シップで体を温めている。お腹を中心に体を温めている。2~3時間、徹底して生姜シップで体を温める。断食中、「噛む、動く、温める」ことで代謝がものすごく高まる。
 それが今回の合宿は連日35度以上の猛暑になり、辛い合宿になったのであるが、気温が体を温めることを後押ししてくれて、ものすごい排毒効果をもたらせてくれた。今回はガンや自己免疫疾患などの難病の参加者はいなかったので、具体的な病状改善ということではなかったのであるが、宿便の排出が多く、症状の改善が大きかった。足の痛みが無くなったり、不安神経症が消えたり、頭痛や倦怠感が消えた人もいた。
 自律神経は自然とつながる神経であるから、やはり夏には夏の暑さを体感することが何より大事なことである。もちろん、熱中症になっては「過ぎたれば及ばざるに危うし」であるから、全てにおいて「ほどほど」がある。しかし、一日中冷房の部屋から出ずに、汗ひとつかかずにいたのでは汗腺は閉じっぱなしである。皮膚の汗腺が閉じっぱなしなっていると、汗が出ず、体に熱を閉じ込めてしまう。冷房のきいた部屋から熱い地上に出ると、熱が発散し切れていないので、なんとも言えない疲労感がある。
 7月の合宿には、夏は27度以上になると冷房で部屋を涼しくしていた、という人が参加していたが、やはり汗腺が働いておらず、この暑さで熱が発散できずに熱中症気味になっていた。だからといって、冷房の部屋で安静にしているだけでは、汗腺は開かず体質改善しない。そんな時も、生姜シップで体を温めると、汗腺が開いて、熱を放出してくれる。
 暑いと冷たい飲み物がおいしいが、冷たい飲み物が過ぎると、体は逆に熱を内に溜め込み、さらに胃腸の活動を低下させ、不消化を起こして疲労感が増す。冷たい飲み物は、胃腸が冷えすぎない程度にしておきたい。暑い時に冷たい飲み物がおいしいのは、喉を通過する時に脳幹が冷されるからである。冷たい飲み物を欲した時に、シャワーで首を冷やすと、不思議とそれほど冷たい飲み物をとらなくても満足する。
 夏の断食は、閉じていた汗腺を開くのに最高の時である。断食の時は特に、冷たい飲み物はとらずに、温かいものを飲む。汗で脱塩もするので、梅干し、たくあん、醤油などでしっかり塩分補給をする。回復食では夏野菜、酢の物、香辛料など、夏の食べ物で満たしてあげる。体質改善は代謝を高めることであるが、代謝とは体を入れ替えることであるから、古いものを排出して新しいものを入れなくてはならない。断食で古いものを排出して、回復食では新しいものを入れることである。回復食で季節の自然な食物をいただくことで、私たちの体は自然に満たされて、体質は自然に改善される。

掃除のチカラ

 私がこくさいやで代表をしていた頃、こくさいやでは月曜、水曜、金曜日の朝30分、スタッフみんなで掃除をしていた。どんなに沢山の仕事が溜まっていようが、朝の30分は掃除の時間と決めて、みんなそれぞれが気になったところを整理したり掃除したりしていた。この掃除をはじめて気がついたことが沢山あった。そして、和道をはじめて掃除を柱にして運営していたら、掃除のチカラをいくつも目の当たりにした。その一部を紹介しようと思う。

①掃除をするとその場所がきれいになり、体をよく動かすから体もきれいになり、動いて血行がよくなるから気持ちもすっきりして心もきれいになる。さらにきれいになると周りの人たちも気分が良くなる。(身の回りがキレイになると身の内もキレイになる)

②どんなに忙しくても掃除をすることで、仕事と仕事の間ができる。大相撲にも仕切りがあるように、掃除は仕事前の仕切りといえる。

③性格が掃除にあらわれる。ひとつのことを根気よくやり通すタイプは掃除も一ヵ所を隅々まできれいにする。視野の広い人は、大きな部屋を掃除する能力が高い。

④掃除には終わりがないが、とりあえず「終わる」ことが重要。一日ですべてがキレイなることはなく、コツコツ続けていくことに意味がある。

⑤整理整頓、掃除をしていくと、本当に汚かったトコロがわかるようになる。(問題が明確化する)

⑥掃除が習慣化されて店舗(家、事務所、会社などでも)の風通しがよくなると、経済状況(家族関係、健康状態も)もよくなる。

⑦掃除にも「ほどほど」がある。

 仕事が溜まりに溜まると、あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ、という焦りが出てくるが、掃除はその焦燥感をも一掃する。身の回りが整うと、身の内である体や心が整うのを掃除が教えてくれる。
 どんなに素晴らしいことであっても、続けなくては物にならない。どんなことでも習慣化しないと続けられるものではない。掃除の習慣化は私たちが身につけるものの中で一番意味のあるものではないかと思う。戦前までは教育で一番重要とされていたのが「修身」であったという。修身の基本が掃除である。
 とはいえ、掃除にも「ほどほど」があるものだと気づいた出来事があった。ある日、和道の窓をキレイに磨き上げたことがあった。まるでそこには何もないくらいに磨き上げた。そうしたら、その日、鳩が窓に激突して、死んでしまった。カーテンを閉めておけばよかったのだが、あまりにキレイになったので、見惚れてそのままにしていた。「清流に魚住まず」といわれるが、掃除にも「ほどほど」があるものだと気づいた。キレイであること、清廉潔白であることを第一にしなくても良いと思う。ほどほどのキレイさが人は心地よいのかもしれない。「ほどほど」が大事であるということが気づけたことも「掃除のチカラ」ではないかと思う。