私がこくさいやで代表をしていた頃、こくさいやでは月曜、水曜、金曜日の朝30分、スタッフみんなで掃除をしていた。どんなに沢山の仕事が溜まっていようが、朝の30分は掃除の時間と決めて、みんなそれぞれが気になったところを整理したり掃除したりしていた。この掃除をはじめて気がついたことが沢山あった。そして、和道をはじめて掃除を柱にして運営していたら、掃除のチカラをいくつも目の当たりにした。その一部を紹介しようと思う。
①掃除をするとその場所がきれいになり、体をよく動かすから体もきれいになり、動いて血行がよくなるから気持ちもすっきりして心もきれいになる。さらにきれいになると周りの人たちも気分が良くなる。(身の回りがキレイになると身の内もキレイになる)
②どんなに忙しくても掃除をすることで、仕事と仕事の間ができる。大相撲にも仕切りがあるように、掃除は仕事前の仕切りといえる。
③性格が掃除にあらわれる。ひとつのことを根気よくやり通すタイプは掃除も一ヵ所を隅々まできれいにする。視野の広い人は、大きな部屋を掃除する能力が高い。
④掃除には終わりがないが、とりあえず「終わる」ことが重要。一日ですべてがキレイなることはなく、コツコツ続けていくことに意味がある。
⑤整理整頓、掃除をしていくと、本当に汚かったトコロがわかるようになる。(問題が明確化する)
⑥掃除が習慣化されて店舗(家、事務所、会社などでも)の風通しがよくなると、経済状況(家族関係、健康状態も)もよくなる。
⑦掃除にも「ほどほど」がある。
仕事が溜まりに溜まると、あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ、という焦りが出てくるが、掃除はその焦燥感をも一掃する。身の回りが整うと、身の内である体や心が整うのを掃除が教えてくれる。
どんなに素晴らしいことであっても、続けなくては物にならない。どんなことでも習慣化しないと続けられるものではない。掃除の習慣化は私たちが身につけるものの中で一番意味のあるものではないかと思う。戦前までは教育で一番重要とされていたのが「修身」であったという。修身の基本が掃除である。
とはいえ、掃除にも「ほどほど」があるものだと気づいた出来事があった。ある日、和道の窓をキレイに磨き上げたことがあった。まるでそこには何もないくらいに磨き上げた。そうしたら、その日、鳩が窓に激突して、死んでしまった。カーテンを閉めておけばよかったのだが、あまりにキレイになったので、見惚れてそのままにしていた。「清流に魚住まず」といわれるが、掃除にも「ほどほど」があるものだと気づいた。キレイであること、清廉潔白であることを第一にしなくても良いと思う。ほどほどのキレイさが人は心地よいのかもしれない。「ほどほど」が大事であるということが気づけたことも「掃除のチカラ」ではないかと思う。