食からわかる命の本質

 食とは何かをあらためて考えてみた。
 人は日に何度も食べものを口に運ぶ。口に入った食べものは体の神秘的なハタラキによって人の細胞に変化する。この世に生まれてこの方、一切の食を摂らずに生きている人は誰もいない。例外なく人は食物を食べている。
 ある昼下がり、私は弁当を食べながら、食とは一体なんだろうと、しみじみと想った。
 そう、食は人が自然や社会、まわりの人々とつながっていることを一番身近で教えてくれている。食物を育てる人、流通する人、加工する人、販売する人、料理をする人、そして食べる人。みな食物・食品を通じてつながっている。
 繋がりはもっともっと深い。食物は土と太陽と水の産物だから、人は土にも太陽にも水にもつながっている。太陽は地球に不断に光を降り注いでいる。大地は何億年をかけて地球の中を隆起しては沈降してを繰り返している。まさに壮大なる陰陽で大地は動いている。水は大地よりもずっと速いスピードで世界を巡り、さらに早く天地を巡っている。
 自然は常に絶え間なく変化する。変化の流れの中から生まれた食物によって私たちは命を繋いでいる。この世はすべてがつながっている。自然界に壁はなく、今ここでも、皆さんのいるそこでも、同じ空気が流れている。呼吸は空気を通じてみなが繋がっていることを教えてくれる。人は出会った時に握手をしたり、ハグをしたりする。これも私達生命はみなつながっていますよ、ということ。
 人と人の出会いや結婚はめでたくうれしいことであり、人の別れ、離婚や離別は辛く悲しいことである。人は一体性に幸せを感じ、分離性に不安を感じるのも、本来の命はすべて、ひとつであったことの表れではないかと思う。
 食はすべてが繋がっていることを様々なことで教えてくれる。健康であれば、人が自然と正しくつながっている証拠。一方で病は、自然と正しくつながっていないことの警告である。自然との正しいつながりを健康と病が教えてくれているわけだから、病と闘ったり、病を排除しようという姿勢では決して本当の健康が訪れない。
 食が正しければ、この世はすべてが繋がっていることが体感できる。自他一体がこの世のマコトの相(スガタ)と食から教わることができる。もちろん食からだけでなく、呼吸からも掃除からも家事からも、どんな仕事からだって知ることができる。どんなことからもすべては繋がっていると体感できる。
 言葉からでもそれがよくわかる。相手を潰そうとか貶めようとする言葉は周りを嫌な気持ちにする。しかし、相手を思いやった言葉、慈しんだ言葉には、周りの人を幸せにする力が宿る。神道の祝詞や仏教のお経には、人々を幸せに導く力がある。キリスト教の聖歌や聖書の言葉にも、人々を導き気づきを与えてくれる力がある。イスラム教のコーランも人々を幸せに向かわせる力がある。食に身土不二があるように、宗教にも身土不二があるから、自分にとって相性の良いものがよい。
 食においても、宗教においても、周りの人と比べて争うことはない。ただ自分の道を歩いていくことに意味がある。