西洋でも東洋でもその昔から、夢を体や心の深層状態をあらわすものと考えられてきた。フロイトの夢判断は、心理学でも大きなひとつの柱になっている。一方、「夢は神仏のお告げ」という考えが東洋にはあった。自分という枠を超えて夢をとらえていたのである。
食養の大先輩で大阪の正食協会で活躍した故山口卓三先生が『陰陽でみる食養法』(正食協会)の中で桜沢如一先生の逸話を紹介している。
「一人の老人が若者に向かって、昨夜、わしはお前がわしの畑の南瓜を盗んだ夢を見たのだよと語ったとします。するとこの若者は、とたんに血相を変えてとび出し、やがて両脇に二つの南瓜を抱えてもってきて、これをお返ししますからどうぞ堪忍してください、という。もしかしたら、多くの人がなんてバカな未開人のメンタリティだろうと思うかもしれません。しかし、わたしは、こんなすばらしい生き方はないと思うのです。なぜかというと、この人たちは夢をすらそのまま現実と思うほど真実を生きているからです。みなさんだって、人から思いもよらぬ疑いをかけられたとき、『とんでもありません。夢にもそんなこと考えたことありません』というではありませんか。日本人もまた、夢と現実とを一つにして見る見方をなしうるのです。日本人はそのことを理解しうる未開人的要素をもっています。けれどもいまは、日本人もおおむねこれらの人を未開人として一段見下げた文明人の意識を強くもっているのです。この未開人の精神構造をよく理解しなければなりません」
夢を現実のものとして素直に受け入れることは何と素晴らしことかと思う。私たちは本質的にはウソはつけない。どんなウソをついても顔に出るのが人のサガであるのと同じように、敏感な人は夢から陰陽さまざまなお告げがあるようだ。
夢からのお告げとして、例えば、水が出てくる夢では腎臓に負担がかかっていることを暗示している。高い所から落ちる夢を見るときも腎臓への負担を暗示し、さらには膀胱への負担も暗示する。他人から、または得体の知れないものから追われている夢を見るときは肝臓の負担を示す。走っても走っても進まない、そんな夢もあるが、これは腸に不消化物がたくさん溜まっている時によく見る。
夢は眠りの浅い時に見ているといわれる。眠りが浅いから覚えているともいえる。眠りが浅いということは身体に溜まった老廃物がたくさんあるということだから、夢は不健康状態への警告と考えられる。一方で正夢というものもある。正夢は深い眠りのときに見る夢である。深い眠りのときに見た夢を覚えている、その記憶力がバツグンでないと見ることのできない夢でもある。もっといえば眠り自体がひじょうに深く、それも短時間の眠りでないと正夢は見られない。床に就いたら数秒で眠り、日の出前にはパッと起きる。寝ている間も微動だにしない。そんな状態が日々続くような人は正夢を見られるかもしれない。深い眠りは、少なくとも胃は空っぽの状態、腸もそれほど動かなくても良い状態でなくてはならない。
その昔、人間は暗闇の夜には食事をしなかった。炎や電灯がなくて食物が見えないということもあるが、食事をして身体を緩めすぎてしまうと、肉食動物などの危険動物からの危険に対応できないということを知っていたから。夕食は早い時間帯に越したことはない。暗くなってからする食事は夜食であり、まだ薄明るい時間の夕方に食するから夕食なのだ。「一日三度の食は獣の食、一日二度の食は人間の食、一日一度の食は神の食」という言葉がある。一日一度、それも必要最小限の食事になったならば、胃腸の負担はなくなる。「聖人の見る夢は正夢」というのは、一日一度の必要最小限の食から来るものだと思う。