「マクロビオティックを無理なく続けるコツって何ですか?」と尋ねられることは少なくない。
マクロビオティックな生き方が板についていると、こういう質問にはパッと答えられないのだが、マクロビオティックを続けている家庭とそうでない家庭を数多く見ていると、わかることがある。
人が継続できることは「おいしい、心地いい、気持ちいい」ことである。その逆を続けることは、なかなか難しい。武道やスポーツ、学問を極めた人たちであっても、嫌なことを無理やりに続けてきたのではなく、辛いことはあっても好きなことを続けていったにすぎない。人間は理性の生き物であるが、生きものとしての本能はどこまでいっても持ち続けている。新聞ニュースをにぎわす人間模様を見聞きしていても、やはり人間は動物的な本能が優位な生き物だと思わざるをえない。
マクロビオティックを無理なく続けるコツは、とてもシンプル、「おいしいごはん」である。自分だけでなく、家族も、「マクロビオティックのおいしいごはん」を食べていたら、ほかの料理にいって帰ってこないなんてことはない。子育てにおいて、子どもたちの「未知のものを知りたい」という欲求は人間の本質的なものであるから、マクロビオティックで育ってきた子どもであればなおさら、一般的な食事に強い関心を持つ。肉、卵、乳製品、魚、砂糖や人工甘味料を使ったスイーツや飲み物が簡単に手に入る環境であれば、それらを食べてみたいと思うのは、正常な感覚である。
私は子育てをとおしても多くのことを学んできた。子ども達の感性と感覚は基本的には正しい。その感性を潰さず、スクスクと伸びることを見守ることは、やはり体にも心にもやさしい「おいしいごはん」を作ってあげることだと思う。
わが家には6人の子がいる。上の子はもう21才。19才、17才、14才と続いて、下の子二人はまだ小学生である。上の子3人はかなり厳格な食養で育てた。家でも外でも完全菜食にこだわっていたから、年に数回ある外食はすべて蕎麦屋。それも自前の醤油を持ち込んで食べていた。学校にももちろん弁当を持たせていた。私たち夫婦はそれが「正しい」と思っていたから、子どもたちは何か違和感があったようだが、それを言えなかった、らしい。21才の長女と当時のことを話すと、蕎麦屋に醤油を持っていったのが「すごく嫌だった」と、笑い話になっていて救われた。
上の子たちは、私たちに隠れて、外のものも食べていた。特に甘いお菓子は「やばいくらい、うまかった」らしく、コンビニの店員さんと仲良くなるくらい通っていた、らしい。男の子は隠すのがヘタで、タンスの奥からカビの生えた菓子パンや食べかけの菓子がニオイと一緒に発見されたりしたから、知っていたが、女子たちのそれはよく把握していなかった。女はこわい。。。
高校生にもなると、友達と外食の機会も増えるから、菓子だけでなく、動物性も食べる機会も増えてくる。次女は中学生まで動物性が一切食べられなかったが、高校になって、少しずつ食べる機会が増えてきたら、いつの間にか食べることができるようになってきた、らしい。友達と一緒にファミレスなどに行って、ニオイを嗅いでいるうちに慣れていったのかもしれない。
上3人は完全菜食のマクロビオティックで子育てをしてきた(小学校高学年くらいから少しずつ買い食いが増えてきたが)。体は元気で、スクスク育ってきた。ただ、友達との付き合いや関係性を上手に築けたかというと、なかなか難しいものがあった、らしい。それでも、子ども達は、自分の体と感性に誇りをもっている、のがよくわかる。
学校生活での嫌な思い出もあるが、「マクロビオティックのおいしいごはん」が自分の基礎になっていると言っている。妻の作る食養料理を子どもたちはいつも「おいしい」「おいしい」と言って、よく食べていた。中高生になって外の味も覚えてきたが、それでも家のご飯が一番おいしいと言っている。今でも家のご飯以上に美味しいものは食べたことがない、という。妻のごはんの基礎になっているのが、大森一慧先生のごはんである。一慧先生のごはんを一番わかりやすく伝えているのが穀菜食Bookだろうと思う。
2024年10月
ジャネの法則と陰陽
ついこの間、正月を祝ったような気もするが、もうふた月もすればまた次の年だから、光陰矢の如し時が過ぎるのは早い。近所の人との立ち話でも、時が過ぎるのが早くなったという会話はすでに常套句になっている気がする。なぜ私たちは年を取れば取るほど、時間の流れを早く感じるのか。
フランスの哲学者、ポール・ジャネの時間に関する説は明解だ。
「心理的な時間の長さは、これまで生きてきた年数の逆数に比例する(年齢に反比例する)」という。逆数とは0を除く数を1で割ったもの。5の逆数は5分の1、8の逆数は8分の1となる。同じ1年でも、10歳の子どもの頃に感じる時間の心理的な長さは50歳の頃に感じるそれと比べると、1/10対1/50で、5倍も長く感じられるという。50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるが、10歳の人間にとっては10分の1に相当する。50歳の人間にとっての5年間は10歳の人間にとっての1年間に当たり、50歳の人間の5日が10歳の人間の1日に当たることになる。10歳の人間の1日は、50歳の人間の5日間に相当するわけであるから、50歳の人間に比べると10歳の人間の1日は「濃い」ことになる。逆にいうと、50歳の人間の1日は10歳の人間の1日に比べると「薄い」ということになる。
生きてきた年数によって一年の相対的な長さがどんどん小さくなることによって、時間が早く感じるというわけだ。
陰陽で考えるとさらにおもしろい。心理的に感じる時間の長さはその人の陰陽の度合いによるということでもある。動物は陽性で生まれ、陰性で死んでゆくとマクロビオティックでは捉えている。ちなみに植物は陰性で誕生し、陽性で終わりを迎えると捉えている。
子どもは大人に比べて陽性と考える。陰性になるほど時間の感じ方が短くなってゆくといえる。気が長い人は気短な人に比べ陰性である。瞬発力という陽性は年とともに衰えていくが、思慮深さという陰性は年とともに増してゆく。ジャネの法則は陰陽の法則ともいえる。
時間の心理的な長短は、人間個人だけでなく、個人の集合体である社会や文明にも当てはまるのではないかと思う。
昔の原始的な生活は、暖をとるのにも薪をあつめて火をおこし寒さを凌いでいた。これは私たち人間が体を動かすことで陽性化し、寒いという陰性な環境に適応していた。ところが、現代文明は物質文明といわれるようになり、私たちの日々の生活は石油や電気エネルギーに依存している。太陽光、風力など自然エネルギーもあるが、人の力を介さないエネルギーという点ではどんなエネルギーも人を陰性化させる。エネルギーに依存した生活は一見便利ではあるが、人間の体をどんどん陰性化させる。
私たち現代人は、運動不足で体は陰性化させられているが、情報社会の中で脳にはさまざまな情報が詰め込まされて、脳は陽性化させられているように思う。脳は陽性に凝り固められているから、パソコンやスマホがないと情報を取り出せない、ということにもなっている。
人間の体を陰性化させる物質文明は、年相応の時間よりもずっと多くの時間を私たちから奪っているともいえる。時間ドロボウから時間を取り戻すには、人間本来の生き方を探求すること以外にないのではないかと思う。
フランスの哲学者、ポール・ジャネの時間に関する説は明解だ。
「心理的な時間の長さは、これまで生きてきた年数の逆数に比例する(年齢に反比例する)」という。逆数とは0を除く数を1で割ったもの。5の逆数は5分の1、8の逆数は8分の1となる。同じ1年でも、10歳の子どもの頃に感じる時間の心理的な長さは50歳の頃に感じるそれと比べると、1/10対1/50で、5倍も長く感じられるという。50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるが、10歳の人間にとっては10分の1に相当する。50歳の人間にとっての5年間は10歳の人間にとっての1年間に当たり、50歳の人間の5日が10歳の人間の1日に当たることになる。10歳の人間の1日は、50歳の人間の5日間に相当するわけであるから、50歳の人間に比べると10歳の人間の1日は「濃い」ことになる。逆にいうと、50歳の人間の1日は10歳の人間の1日に比べると「薄い」ということになる。
生きてきた年数によって一年の相対的な長さがどんどん小さくなることによって、時間が早く感じるというわけだ。
陰陽で考えるとさらにおもしろい。心理的に感じる時間の長さはその人の陰陽の度合いによるということでもある。動物は陽性で生まれ、陰性で死んでゆくとマクロビオティックでは捉えている。ちなみに植物は陰性で誕生し、陽性で終わりを迎えると捉えている。
子どもは大人に比べて陽性と考える。陰性になるほど時間の感じ方が短くなってゆくといえる。気が長い人は気短な人に比べ陰性である。瞬発力という陽性は年とともに衰えていくが、思慮深さという陰性は年とともに増してゆく。ジャネの法則は陰陽の法則ともいえる。
時間の心理的な長短は、人間個人だけでなく、個人の集合体である社会や文明にも当てはまるのではないかと思う。
昔の原始的な生活は、暖をとるのにも薪をあつめて火をおこし寒さを凌いでいた。これは私たち人間が体を動かすことで陽性化し、寒いという陰性な環境に適応していた。ところが、現代文明は物質文明といわれるようになり、私たちの日々の生活は石油や電気エネルギーに依存している。太陽光、風力など自然エネルギーもあるが、人の力を介さないエネルギーという点ではどんなエネルギーも人を陰性化させる。エネルギーに依存した生活は一見便利ではあるが、人間の体をどんどん陰性化させる。
私たち現代人は、運動不足で体は陰性化させられているが、情報社会の中で脳にはさまざまな情報が詰め込まされて、脳は陽性化させられているように思う。脳は陽性に凝り固められているから、パソコンやスマホがないと情報を取り出せない、ということにもなっている。
人間の体を陰性化させる物質文明は、年相応の時間よりもずっと多くの時間を私たちから奪っているともいえる。時間ドロボウから時間を取り戻すには、人間本来の生き方を探求すること以外にないのではないかと思う。
命を磨く習慣
習慣とは大事なものだと思う。習慣化されたものは、いつでもどこでも出てくるものだ。英語を話す習慣のある人は、どこであっても自然に口から英語が飛び出してくる。掃除の習慣のある人は、どこにいっても身の回りをきれいにすることができる。旅先の宿でも、部屋をきれいに使うことができ、帰る時も掃除が必要ないくらいである。
体の習慣も同じように、笑顔の習慣がないと自然に笑顔が出てこない。顔の筋肉も、他の筋肉と同様に、日々習慣的に使っていないと硬くなってしまう。ニコッと笑う習慣が身についたならば、顔の筋肉は柔らかくなり、肌の血行もよくなり、若返り、美人となる。
多くの人の望診(食養相談)をしていて、笑顔の習慣のある人は肌の艶がよく、キレイで、笑顔の習慣のない人にシミそばかすが多いのに気づいた。笑顔になることによって顔の血行がよくなり、シミもそばかすも消えてゆくのだろう。もちろん血液がキレイであるから血行が良くて笑顔が絶えないということでもある。笑顔と血液循環は相関的なものだ。
この夏、フランスで五輪が開催されたが、各競技で表彰台に立つ人たちも、顔の艶がよくキレイで均整がとれている。運動選手は体を動かすことが習慣化しているから、血液循環はよく、「流水腐らず」のように、キレイな血液が流れているのだろう。
笑顔は最大のお布施といわれる。笑顔は人によい気分を与える。周りの人だけでなく、実は自分自身に最大最高の健康と幸福をもたらせている。作り笑いでもあっても、笑うとホルモンが活性化するのだ。まさに「笑う門には福来る」である。笑顔ひとつみてもこの世とは自他一体であることに気づかされる。笑顔で幸福を与えていながら自分に返ってくる健康と幸福。なんと素晴らしいものだろう。
食を調えてキレイな血液を流したならば、笑顔が自然に出てくるのだが、凝り固まった顔の筋肉を解すのは簡単なことではない。作り笑顔でもよい。笑顔は血流を良くするマッサージのようなものであるのだから。体が本当にキレイになったならば意識せずとも笑顔が出てくる。同時に本当にキレイになったならば意識せずとも調和的な食事ができるようになる。笑顔もまったく一緒、作り笑顔がそのうちに本当の笑顔になってくる。
詩人の坂村真民さんは「念ずれば花ひらく」という。想いは必ず通じるということ。想っておもって、想い切るとかならず行動に現れる。私たちの行動はみな想いに裏付けられている。楽しいタノシイ想いをもって行動すれば軽やかな行動になるが、嫌だなーという想いを抱いて行動したならば足に重しをつけたような行動になるだろう。仕事を楽しんでやれたならば有形無形のすばらしい報酬があるが、嫌々ながらの仕事では何の報酬もないばかりか、かえってその人の不平不満を増幅させて心身とも疲弊してしまう。
この世は損得を超えたまったくの平等の世界だと、歴史や多くの人の人生を見ているとそう思わざるをえない。ミクロにみるとこの世は平等には見えないが、マクロに大きく大きくみるとまったくの平等の世界とわかる。
私たちは想念のとおりの人生を歩んでいる。想念以外のことはおとずれないといってもいいくらい、想い通りの人生を歩んでいる。その想いは意識と無意識に関わらないものだから、一見すると思いの外の現実も多々ある。想定外とは、そもそも意識的な思いの外のことをいっている。この世は意識と無意識、それに超意識(宇宙意識)によって成り立っている。この三つの意識がすべてつながると、人生は想い通りの道を歩むこととなる。私たちの意識と無意識、超意識を通りの良いものにするには、食と生活を調え、この世とは自他一体であることを想い実践する心の鍛錬が必要なのではないかと思う。真民さんの「念ずれば花ひらく」を実現するにはマコトの生活をコツコツと歩んでいくのが一番の近道のようだ。
体の習慣も同じように、笑顔の習慣がないと自然に笑顔が出てこない。顔の筋肉も、他の筋肉と同様に、日々習慣的に使っていないと硬くなってしまう。ニコッと笑う習慣が身についたならば、顔の筋肉は柔らかくなり、肌の血行もよくなり、若返り、美人となる。
多くの人の望診(食養相談)をしていて、笑顔の習慣のある人は肌の艶がよく、キレイで、笑顔の習慣のない人にシミそばかすが多いのに気づいた。笑顔になることによって顔の血行がよくなり、シミもそばかすも消えてゆくのだろう。もちろん血液がキレイであるから血行が良くて笑顔が絶えないということでもある。笑顔と血液循環は相関的なものだ。
この夏、フランスで五輪が開催されたが、各競技で表彰台に立つ人たちも、顔の艶がよくキレイで均整がとれている。運動選手は体を動かすことが習慣化しているから、血液循環はよく、「流水腐らず」のように、キレイな血液が流れているのだろう。
笑顔は最大のお布施といわれる。笑顔は人によい気分を与える。周りの人だけでなく、実は自分自身に最大最高の健康と幸福をもたらせている。作り笑いでもあっても、笑うとホルモンが活性化するのだ。まさに「笑う門には福来る」である。笑顔ひとつみてもこの世とは自他一体であることに気づかされる。笑顔で幸福を与えていながら自分に返ってくる健康と幸福。なんと素晴らしいものだろう。
食を調えてキレイな血液を流したならば、笑顔が自然に出てくるのだが、凝り固まった顔の筋肉を解すのは簡単なことではない。作り笑顔でもよい。笑顔は血流を良くするマッサージのようなものであるのだから。体が本当にキレイになったならば意識せずとも笑顔が出てくる。同時に本当にキレイになったならば意識せずとも調和的な食事ができるようになる。笑顔もまったく一緒、作り笑顔がそのうちに本当の笑顔になってくる。
詩人の坂村真民さんは「念ずれば花ひらく」という。想いは必ず通じるということ。想っておもって、想い切るとかならず行動に現れる。私たちの行動はみな想いに裏付けられている。楽しいタノシイ想いをもって行動すれば軽やかな行動になるが、嫌だなーという想いを抱いて行動したならば足に重しをつけたような行動になるだろう。仕事を楽しんでやれたならば有形無形のすばらしい報酬があるが、嫌々ながらの仕事では何の報酬もないばかりか、かえってその人の不平不満を増幅させて心身とも疲弊してしまう。
この世は損得を超えたまったくの平等の世界だと、歴史や多くの人の人生を見ているとそう思わざるをえない。ミクロにみるとこの世は平等には見えないが、マクロに大きく大きくみるとまったくの平等の世界とわかる。
私たちは想念のとおりの人生を歩んでいる。想念以外のことはおとずれないといってもいいくらい、想い通りの人生を歩んでいる。その想いは意識と無意識に関わらないものだから、一見すると思いの外の現実も多々ある。想定外とは、そもそも意識的な思いの外のことをいっている。この世は意識と無意識、それに超意識(宇宙意識)によって成り立っている。この三つの意識がすべてつながると、人生は想い通りの道を歩むこととなる。私たちの意識と無意識、超意識を通りの良いものにするには、食と生活を調え、この世とは自他一体であることを想い実践する心の鍛錬が必要なのではないかと思う。真民さんの「念ずれば花ひらく」を実現するにはマコトの生活をコツコツと歩んでいくのが一番の近道のようだ。