ついこの間、正月を祝ったような気もするが、もうふた月もすればまた次の年だから、光陰矢の如し時が過ぎるのは早い。近所の人との立ち話でも、時が過ぎるのが早くなったという会話はすでに常套句になっている気がする。なぜ私たちは年を取れば取るほど、時間の流れを早く感じるのか。
フランスの哲学者、ポール・ジャネの時間に関する説は明解だ。
「心理的な時間の長さは、これまで生きてきた年数の逆数に比例する(年齢に反比例する)」という。逆数とは0を除く数を1で割ったもの。5の逆数は5分の1、8の逆数は8分の1となる。同じ1年でも、10歳の子どもの頃に感じる時間の心理的な長さは50歳の頃に感じるそれと比べると、1/10対1/50で、5倍も長く感じられるという。50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるが、10歳の人間にとっては10分の1に相当する。50歳の人間にとっての5年間は10歳の人間にとっての1年間に当たり、50歳の人間の5日が10歳の人間の1日に当たることになる。10歳の人間の1日は、50歳の人間の5日間に相当するわけであるから、50歳の人間に比べると10歳の人間の1日は「濃い」ことになる。逆にいうと、50歳の人間の1日は10歳の人間の1日に比べると「薄い」ということになる。
生きてきた年数によって一年の相対的な長さがどんどん小さくなることによって、時間が早く感じるというわけだ。
陰陽で考えるとさらにおもしろい。心理的に感じる時間の長さはその人の陰陽の度合いによるということでもある。動物は陽性で生まれ、陰性で死んでゆくとマクロビオティックでは捉えている。ちなみに植物は陰性で誕生し、陽性で終わりを迎えると捉えている。
子どもは大人に比べて陽性と考える。陰性になるほど時間の感じ方が短くなってゆくといえる。気が長い人は気短な人に比べ陰性である。瞬発力という陽性は年とともに衰えていくが、思慮深さという陰性は年とともに増してゆく。ジャネの法則は陰陽の法則ともいえる。
時間の心理的な長短は、人間個人だけでなく、個人の集合体である社会や文明にも当てはまるのではないかと思う。
昔の原始的な生活は、暖をとるのにも薪をあつめて火をおこし寒さを凌いでいた。これは私たち人間が体を動かすことで陽性化し、寒いという陰性な環境に適応していた。ところが、現代文明は物質文明といわれるようになり、私たちの日々の生活は石油や電気エネルギーに依存している。太陽光、風力など自然エネルギーもあるが、人の力を介さないエネルギーという点ではどんなエネルギーも人を陰性化させる。エネルギーに依存した生活は一見便利ではあるが、人間の体をどんどん陰性化させる。
私たち現代人は、運動不足で体は陰性化させられているが、情報社会の中で脳にはさまざまな情報が詰め込まされて、脳は陽性化させられているように思う。脳は陽性に凝り固められているから、パソコンやスマホがないと情報を取り出せない、ということにもなっている。
人間の体を陰性化させる物質文明は、年相応の時間よりもずっと多くの時間を私たちから奪っているともいえる。時間ドロボウから時間を取り戻すには、人間本来の生き方を探求すること以外にないのではないかと思う。