「磯貝君、これからの世の中で一番難しいことは、男と女が真に結ばれることだよ」大森英桜に師事して間もない時に言われたひと言である。20代の生意気な私は、「先生、この世はいつまでも陰陽だから、陰には陽、陽には陰、男女のそれも陰陽で乗り切れると思います!」と、今思えば恥ずかしくも、豪語していた。
日本人の出生数が下がる一方である。少子化の波は大波で、特に地方では集落の死活問題になっている。和道のある群馬・富岡市でも小中学校の統廃合が今年から実施される。隣の町では一年に一人の子も生まれなかったという地域がある。大森が言うように、男と女が実際に結ばれていない時代に私たちはもうすでに突入していた。
米国のトランプ大統領が就任式で「米国には男と女しかいない」と言ったようだ。当たり前のことである。この世には男と女しかいない。もちろん、同性が好きな男女は昔から一定数いるが、それでもその人たちも「男か女」である。ジェンダーフリーなどといって、男女の違いを曖昧にすることは、自然界から見ると滑稽である。もちろん、社会的には男女は同権であり、社会的な違いがあってはならない。しかし、生理的、生物的には違いがあり、その違いは尊重されないとならない。
妻の実家は会津の山奥である。15年ほど前、妻の祖母が亡くなった時、会津地方の伝統的な葬儀に驚いた。忌明けの食事が男女別であった。食べる場所も違う。男の席には魚があるが、女の席には魚がなく、野菜ばかりである。男と女で明白に分けている。男女の陰陽を明らかにしていることの証ではないかと思う。マクロビオティックの陰陽でみたら、素晴らしいことだと思う。会津の豪雪地帯では、男は男、女は女、陰陽が明白になっていなければ生きてこられなかったのではないかと思う。
大森の言う「難しい男女の結び合い」というのは、何千年と続く男女の陰陽観が崩壊したことを言っていたのである。大森は私の生意気な言葉を、ニコニコして聞いていた。一方の私は、今思うと、大森の言葉は当たっていたと、素直に思える。
「一姫二太郎」子どもを授かるならば、一番目に女児、二番目に男児が理想的だという諺である。女の子の方が体が強く、病気にも罹りにくい。実際、乳幼児死亡率は統計開始以来、女児の方が少なく、男児の方が高い。新米ママには生命力のある女の子の方が育てやすいというわけだ。子育てに慣れたところで男児を産んだ方が、男の子が育ちやすく、さらに上の女の子が下の男の子を面倒みてくれる。小さいママ(ホントのチーママ)が一番目の女児というわけだ。
私たちのダレひとりとして例外なく、父と母の精子と卵子が結ばれた受精卵を命の元としている。そして、母のお腹の中で十月十日育まれ、この世に誕生している。母のお腹の中での初期のころは男女の違いはないという。むしろ、元々、私たちはすべて、女であったようだ。その女である生命が、陰陽の働きによって、男は男になり、女は女にとどまったようなのだ。陰性は遠心力が強く、陽性は求心力が強い。陰陽の物理である。母のお腹の中で、初期の頃、遠心力という陰性なエネルギーを浴びて生殖器が体の外に飛び出したのが男児である。一方、女児は求心力という陽性なエネルギーが勝ったので、生殖器が体の中に留まり、女児となった。
赤子においては男が陰性で女が陽性ではないかと私は考えている。そして、それがゆえに、陰は陽を求め、陽は陰を求めるように、男は陽性を欲し、女は陰性を欲する。わが家の子育てでも、子どもへの食養指導でも、多くの場合、男児の方が陽性な食を欲することがとても多い。女の子がおいしく食べているみそ汁を、男の子は薄いと言って、味噌や醤油を足すことはしばしばである。さらに、男の子は動物性を欲することが多く、穀菜食の家の子でも、男の子は菜食では満足しない子も少なくない。食養の家庭で女の子は素直に育っている子は多いが、男の子では菜食に反発する子も少なくない。陰陽でみたら、よくわかる。
陰性な男児は陽性を求めて陽性な男になり、陽性な女児は陰性を求めて陰性な女になる。食養ではこの陰陽を理想としている。しかし、現代はこの陰陽がバラバラ、または極陰極陽という不調和になっていることがとても多い。大森が「現代で男女が真に結ばれることこそ難しい」というのは、この陰陽の乱れを言っていたのだ。(つづく)