「死ぬ時節には死ぬがよく候」良寛和尚の有名な言葉である。良寛さんが71才の時、越後を襲った大地震で多くの人々が亡くなった。その時に、良寛さんが友人に宛てた手紙の中の一節である。「しかし災難に遭ふ時節には災難に遭ふがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候 かしこ 良寛」
災難にも目を背けず、あるがままを受け入れて、今できることを精一杯行う、それ以外にないではないか、というのが良寛さんなのだろう。
曹洞宗の開祖・道元禅師もあるがままを受け入れる大切さをある逸話で残している。病にかかった幼子を抱えた母がいた。母は何とか子どもを助けたいといろいろな医者に行くが、どの医者も打つ手がないという。そんな母に道元は、「病人が一切出たことのない家の井戸の水を飲ませなさい」という。母は必死になって病人が出たことのない家を探すが、そんな家はどこにもなかった。そして、幼子は残念ながら亡くなってしまう。道元禅師もまた良寛さんと同じように、死ななくてはならないときはそれを受け入れなくてはならない、といっているのかもしれない。一方で、本当に病人が出たことのない家の井戸は、磁場が良く、水のエネルギーが高く、どんな病気も癒す力があると道元禅師は知っていたのかもしれない。しかし、そんな井戸は滅多になく、なかなか探すことができなかったのかもしれない。
現代社会の少子化も、あるがままを受け入れているだけでいいのだろうか。物事には必ず、原因と結果がある。そして、自然現象と人工現象があるのも現代の特徴である。
私は、現代の少子化は多くの場合、人工的な問題だと考えている。地震などの自然災害とはまったく別物なのだ。
少子化の前提に未婚社会があるというけれど、男が女を求める力、女が男を求める力が低下しているのだと思う。男はある年齢になったら女性のことで頭がいっぱいになり、女はある年齢になったら男性のことで頭がいっぱいになるのが自然である。それが男女ともに、だいたい中高生の頃であるのが自然であるのだが、ちょうどその頃になると受験勉強が本格化する。勉強というものは本来、心身ともに元氣になるようなものでなければならない。それが現代教育の勉強は知識だけ増えて、けっして健康になるようなものではない。これは日本だけでなく、東アジアの中国、韓国ともにそうである。日本、中国、韓国ともに、少子化の問題が深刻である。国家ということを考えても、国家の中枢で仕事をする人たちの生命力が弱かったら、列強諸国に伍していくことはできない。数多くの健康相談をしていると、高学歴の女性に子どもが少ないことが多いが、これも現代教育の根本的な間違いではないかと思う。
桜沢如一は25才までは徹底した体づくりが大切だといった。伝統的な食事、それも一汁一菜から三菜の素食でいい。家の中や外を徹底的に掃除する力を身につけて、自分で自分の食べ物を作る。そして、調理する。これを昔から修身といって、自分のことは自分でする、ということを身につける。この修身は、実は自然な食をしていなければ、できることではない。
「男は男らしく、女は女らしく」ということを言ってはならない、という雰囲気があるが、これも大きな問題である。自然な食をしていたら、男は男らしくなり、女は女らしくなるのが、生物の本性である。
私は少子化の原因として、食の劣悪化、飽食(高カロリー、高たんぱく、白砂糖と人工甘味料)、化学物質の氾濫(農薬、化学肥料、合成洗剤、住宅、車、ワクチンなど)、電磁波の氾濫(スマホ、ゲーム、PCなど)、運動不足、危機感の喪失、偏った学校教育などではないかと考えている。世界でも飢餓状態が高いアフリカでは、出生率が高いという統計がある。命の危機感が強いほど、本能的に子孫を残さなければならないという生命力が湧いてくる。
和道をはじめて11年になるが、その間、妊活で断食に参加される人たちも多かった。私の感覚的なところになるが、断食の妊活成功率は限りなく100%に近い。1度の断食で妊娠した人もいる。断食は体の大掃除であるから、溜まった毒素のデトックスになり、かつ危機感が生命力を刺激するのかもしれない。断食で体を整え、伝統的な自然な食を日々の食生活としたら、男は男らしくなり、女は女らしくなる。私はこれを少子化問題の解決法だと信じている。