ハジメあればオワリあり(その2)

 歯車が上手く回らない時というのは何をやってもうまくいかない。こくさいやを始めた当初、自然農法にこだわった食材を揃えるのに苦労した。父の天恵の里では、元々自然養鶏をしていたから、自然栽培の野菜を何種類も作っていたわけではなかった。数件の農家さんからの仕入れでは店の棚はいっぱいにならず、大田市場で唯一自然農法産の野菜を扱っていた問屋さんに週に3回仕入れに行っていた。練馬から大田市場まで早朝の時間だと車で片道1時間くらいだったので、週3回は朝3時にこくさいやを出て野菜を仕入れていた。夜7時まで店を開けていたから、睡眠時間はかなり短かった。休日の日曜は宇宙研の行事がほとんど入っていたので、20代の頃はお盆と正月以外は休んだことなかった。それでも好きなことをしていたので、ストレスに感じることはなかった。しかし、体には疲れが溜まっていたのだろう、車の運転中に何度か寝てしまうことがあり、事故を起こしたこともあった。大きな事故にはならなかったのが幸いだった。
 「若い時の苦労は買ってもせよ」といわれるが、そんな意識でやっていたわけではないが、結果そんなだった。若い時は陽性であるのが自然なのだろう。陽性さというのは、よく動き回る。ムダな動きも多い。それでも若い時というのはそのムダが大いに勉強になる。歯車が上手く回らない時は、なぜ回らないのかをよく考える。それが大事だと思う。毎日が反省でいっぱいだった。それでも楽しかった。
 「こくさいや」という名前は、編集者の橋本京子さんのアイデアだった。「穀菜食」は「国際食」にかけての名づけだった。橋本京子さんは一慧先生の大ヒット作『からだの自然治癒力を引き出す食事と手当て』(サンマーク出版)の生みの親だった。センス抜群のネーミングだった。橋本京子さんにも心から感謝している。
 こくさいやを初めて数か月たった時、石原順子さんという方にアルバイトに来てもらった。ホントに安い時給だったが、素晴らしい働きをしてくれた。主婦の目線で野菜や商品を陳列してくれたり、接客してくれた。売上がなかなか伸びなかったので、かなり遠くまで配達に行ってもいたから、帰りが遅い時には遅くまで店番もしてくれた。石原さんがいなかったらこくさいやは25年も続けられなかったと思う。
 その後に、今の店長の山澤さんが入ってきて、あの勢いでバリバリ仕事をしてくれた。最初の頃は娘さんが小さかったのでパートタイムだったが、娘さんが大きくなって時間ができたら社員になってくれた。
 雑誌オレンジページで紹介してもらってから店の経営は順調になり、当時の店舗では手狭になって、引っ越しすることにした。それが平成15年(2003年)だった。新店舗(現在の店)では2階をフリースペースとして、毎月食養の勉強会をするようになった。食養相談にもより力を入れるようにした。体の陰陽に合った食養はそれは大きな力を発揮するということを経験を通して知ることとなった。私自身はその食養指導が高じて、郷里に戻って和道を開くことになった。それが平成24年(2012年)で、前年の東日本大震災も本格的な食養指導をする必要性を強く感じた出来事であった。
 その後、こくさいやで柱として働いていた田村竹遼さんも田舎での農的暮らしを志して長野へ移住し、山澤さんが店長となった。そして、平成26年(2014年)に大森一慧先生の長男・英藤さんと次男・登希義さんが宇宙研の経営に加わることになった。平成28年(2016年)末には、宇宙研を休会し、私たち役員も大森先生ご家族を除いて全員役員を退いた。
 そこからは山澤さんの孤軍奮闘だった。震災前、社員5名、バイト5名でやっていたのを最終的には社員は山澤さんだけになったから、山澤さんは大変だった。昼も夜もなかったと思う。そんな状況だったから、今回、山澤さんが経営者になって新たな店を始めるのは自然の流れだったような氣がする。(つづく)