だいぶ前の話しだが、ある地域一帯でほとんどの学校に泥棒が入って、大規模な被害があった。そんな地域の中でたった一校だけ、泥棒に入られずに、被害にあわなかった学校があったという。
どんな学校だったのだろうか。
貧乏学校で、今にも潰れてしまいそうな学校だったのだろうか。
その後、泥棒は捕まり、真相が明らかになった。泥棒は盗みに入る前に、それぞれの学校を綿密に調べていたという。建物の様子、先生や生徒のようすまで詳しく調べてから盗みに入ったという。そして、一校だけ盗みに入らなかった理由を刑事が聴くと、その泥棒は「あそこだけは入れなかった」と言ったというのだ。あの学校だけにはどうしても足を踏み入れることができなかった、というのだ。
下調べでそれぞれの学校を巡った時、その学校の生徒にヒミツがあったという。盗みの被害から免れた学校の生徒たちは、何とも清々しい言葉で「おはようございます」「こんにちは」と誰ひとりの例外なく、泥棒に挨拶をしていたという。もちろん生徒たちは泥棒を泥棒と把握していたわけではない。どんな人にでも笑顔で挨拶する習慣がついていたのだ。その様子を目の当たりして、泥棒はどうしてもその学校だけには盗みに入ることができなかったのだ。
「芸は身を助ける」というが、「笑顔と挨拶は人を救う」というのは大げさではないような氣がする。
多くの人は、生きるならばよりよく生きたいと心のどこかで思っている。よい氣を発して生きていきたいと思っている。
笑顔は人を癒す。言葉は人を救う。もちろん逆もある。仏の道でも笑顔は最高のお布施という。和顔施(わがんせ)。笑顔と挨拶は、植物にとっては花のようなもの。きれいな花を咲かせるには、キレイな土と水、自然な光が必要である。笑顔と挨拶がまわりの人たちを癒し救うことができるかどうかは、日々の食と生活にある。
笑顔とよい言葉が自然に出てくるようになるには、一日一生という生き方ができるかどうかではないかと思う。朝起きたら、今日もまた命をいただいた、と感じられるかどうか。朝日を拝んで、今日もまた生まれ変わったと感じられるかどうか。
体と食の関係において、「その日暮らし」が最高である。その日に食べたものはその日のうちにしっかりと消化してしまうことである。前の日に食べたものが次の日に残っているようでは、朝はパッと起きられないどころか、何がしかに理由がついて不平と不満があらわれる
不平不満は体の中に未消化物が残っているというシグナルでもある。さらに、今食べているものの不消化物だけでなく、過去に摂って蓄積していた老廃物も未消化物と同じような作用をする。むしろ、過去のものの方が、なかなか代謝(解毒排毒)できなかったわけであるから、体と心への作用は強い。そのような不平不満はある意味、排毒反応でもあるから、体がしっかりとキレイな状態にならないと一日一生の生き方は難しい。
心の鍛錬だけで一日一生の生き方を実現する人が中にはいるが、そういう人は毒素の蓄積が少なかったのではないかと思う。両親祖父母からの健康の貯金がたくさんあったのだと思う。
体と心はひとつであるから、心身一体の取り組みをしなくては本当に一日一生を実現できるものではないと思う。
宮崎アニメに「借り暮らしのアリエッティー」という映画がある。小人のアリエッティー家族は人間の住む家の縁の下に借り住まいしている。
私たちもダレひとりの例外なく、この土地を一時的に借りて住まわせてもらっているにすぎない。自分の土地と建物だと主張しても、地球の歴史からみれば借りているにすぎない。一時的にお借りしているという心が湧きおこってくるかどうかも一日一生の心につながるような氣がする。