「鏡よ鏡よ鏡さん、世界で一番美しいのはダレ?」
「それは白雪姫」という有名なフレーズがある。
そもそも本当に美しい人は、鏡(他者に)にそんなこと聞かない、とツッコミたくなるが、人のサガでもあるから、わからないでもない。
末娘が小学校に上がって間もない頃、私に「お父さん、世界で一番好きな人はダレ?」と聞いてきた。私は「家族のみんな世界で一番好きだよ」と答えたら、「○○兄(長男)は○○ちゃん(末娘)だよって言ったよ!」
コノヤロー、いつの間にそんなワザを覚えた~、と高校生(当時)の長男にしてやられた。聞かれる鏡の器次第で、この世は平和にもなるし、大変な事にもなる。
美は魔物であると、どこかのダレかが言っていた。羊が大きいと書いて美、ともいわれるが、大きいことはいいことだ、というのも魔物的である。ただ、美が非日常的な魅惑の世界にあってほしいという人間の心情もよくわかる。
版画家の棟方志功(1903~1975)はふくよかで丸みのある女性を美の象徴としたが、現代女性の美(意識)はずいぶんとスリムなような氣がする。時代や人によって、美の感性は大きく違う。江戸時代までの美人と現代の美人に大きな違いがある。明治以降、外国との関りが大きくなって、私たちの意識に大きな変化があったことは想像に難しくない。特に戦後は、経済大国として市場化した日本は、美とビジネスが結びついた。美しさはビジネスを活発化させる一つのツールになってしまった。そんな中で、明治以降に生まれた棟方志功が江戸時代以前の女性のふくよかさを日本人女性の美の原点と捉えたのは、食養を後世に残した石塚左玄や桜沢如一の感性と通じるところがある。
食養指導に関わり早30年、思えば陰に陽にいろいろな人に関わってきた。そんな中で、「美人とは陰陽が調和された人」だと思う。顔の左右や上下が調和的な人は健康である。実際に、脳梗塞や脳出血などで脳の病気が出現すると顔の左右に歪みが出ることが多々ある。脳だけでなく、体の臓器に異常が出ると顔に問題が出てくる。望診は顔と体の状態を統計的に観てきた学問でもある。千年以上続く東洋の代表的な診断法でもあるのだ。
顔かたちだけでない。生き方も陰陽が調和された人が美人ではないかと思う。桜沢如一は健康の七大条件で「万事スマート」という条件をつけている。スマートというのは、「美しい」ということであり、周りの人によい氣を与えることである。見ていて清々しい、楽しいというのもスマートだと思う。
自分の美しさにこだわるあまり、周りに不愉快な氣をまき散らしているのは、どこをどう切り取っても美とはいえない。自分のことはそっちのけで周りに尽くした人生は、それが泥まみれであっても、それ以上に美しいことはないと思う。
アフガニスタンの地で土まみれになって現地の人の生活の向上に命をかけた中村哲の生き方こそ美しい。東洋医学の叡智を西洋人に理解させようと、アフリカで泥まみれになりながらあえて熱帯性潰瘍を患い、それを食養療法で治した桜沢如一の生き方こそ美しい。
マクロビオティックは命を大きく観た生き方・あり方である。美しいという感性を大きく観たら、多くの人に喜ばれるような生き方そのものが美しいのではないかと思う。