男と女の和合の道・その2

 「死ぬ時節には死ぬがよく候」良寛和尚の有名な言葉である。良寛さんが71才の時、越後を襲った大地震で多くの人々が亡くなった。その時に、良寛さんが友人に宛てた手紙の中の一節である。「しかし災難に遭ふ時節には災難に遭ふがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候 かしこ 良寛」
 災難にも目を背けず、あるがままを受け入れて、今できることを精一杯行う、それ以外にないではないか、というのが良寛さんなのだろう。
 曹洞宗の開祖・道元禅師もあるがままを受け入れる大切さをある逸話で残している。病にかかった幼子を抱えた母がいた。母は何とか子どもを助けたいといろいろな医者に行くが、どの医者も打つ手がないという。そんな母に道元は、「病人が一切出たことのない家の井戸の水を飲ませなさい」という。母は必死になって病人が出たことのない家を探すが、そんな家はどこにもなかった。そして、幼子は残念ながら亡くなってしまう。道元禅師もまた良寛さんと同じように、死ななくてはならないときはそれを受け入れなくてはならない、といっているのかもしれない。一方で、本当に病人が出たことのない家の井戸は、磁場が良く、水のエネルギーが高く、どんな病気も癒す力があると道元禅師は知っていたのかもしれない。しかし、そんな井戸は滅多になく、なかなか探すことができなかったのかもしれない。
 現代社会の少子化も、あるがままを受け入れているだけでいいのだろうか。物事には必ず、原因と結果がある。そして、自然現象と人工現象があるのも現代の特徴である。
 私は、現代の少子化は多くの場合、人工的な問題だと考えている。地震などの自然災害とはまったく別物なのだ。
 少子化の前提に未婚社会があるというけれど、男が女を求める力、女が男を求める力が低下しているのだと思う。男はある年齢になったら女性のことで頭がいっぱいになり、女はある年齢になったら男性のことで頭がいっぱいになるのが自然である。それが男女ともに、だいたい中高生の頃であるのが自然であるのだが、ちょうどその頃になると受験勉強が本格化する。勉強というものは本来、心身ともに元氣になるようなものでなければならない。それが現代教育の勉強は知識だけ増えて、けっして健康になるようなものではない。これは日本だけでなく、東アジアの中国、韓国ともにそうである。日本、中国、韓国ともに、少子化の問題が深刻である。国家ということを考えても、国家の中枢で仕事をする人たちの生命力が弱かったら、列強諸国に伍していくことはできない。数多くの健康相談をしていると、高学歴の女性に子どもが少ないことが多いが、これも現代教育の根本的な間違いではないかと思う。
 桜沢如一は25才までは徹底した体づくりが大切だといった。伝統的な食事、それも一汁一菜から三菜の素食でいい。家の中や外を徹底的に掃除する力を身につけて、自分で自分の食べ物を作る。そして、調理する。これを昔から修身といって、自分のことは自分でする、ということを身につける。この修身は、実は自然な食をしていなければ、できることではない。
 「男は男らしく、女は女らしく」ということを言ってはならない、という雰囲気があるが、これも大きな問題である。自然な食をしていたら、男は男らしくなり、女は女らしくなるのが、生物の本性である。
 私は少子化の原因として、食の劣悪化、飽食(高カロリー、高たんぱく、白砂糖と人工甘味料)、化学物質の氾濫(農薬、化学肥料、合成洗剤、住宅、車、ワクチンなど)、電磁波の氾濫(スマホ、ゲーム、PCなど)、運動不足、危機感の喪失、偏った学校教育などではないかと考えている。世界でも飢餓状態が高いアフリカでは、出生率が高いという統計がある。命の危機感が強いほど、本能的に子孫を残さなければならないという生命力が湧いてくる。
 和道をはじめて11年になるが、その間、妊活で断食に参加される人たちも多かった。私の感覚的なところになるが、断食の妊活成功率は限りなく100%に近い。1度の断食で妊娠した人もいる。断食は体の大掃除であるから、溜まった毒素のデトックスになり、かつ危機感が生命力を刺激するのかもしれない。断食で体を整え、伝統的な自然な食を日々の食生活としたら、男は男らしくなり、女は女らしくなる。私はこれを少子化問題の解決法だと信じている。

男と女の和合の道

 「磯貝君、これからの世の中で一番難しいことは、男と女が真に結ばれることだよ」大森英桜に師事して間もない時に言われたひと言である。20代の生意気な私は、「先生、この世はいつまでも陰陽だから、陰には陽、陽には陰、男女のそれも陰陽で乗り切れると思います!」と、今思えば恥ずかしくも、豪語していた。
 日本人の出生数が下がる一方である。少子化の波は大波で、特に地方では集落の死活問題になっている。和道のある群馬・富岡市でも小中学校の統廃合が今年から実施される。隣の町では一年に一人の子も生まれなかったという地域がある。大森が言うように、男と女が実際に結ばれていない時代に私たちはもうすでに突入していた。
 米国のトランプ大統領が就任式で「米国には男と女しかいない」と言ったようだ。当たり前のことである。この世には男と女しかいない。もちろん、同性が好きな男女は昔から一定数いるが、それでもその人たちも「男か女」である。ジェンダーフリーなどといって、男女の違いを曖昧にすることは、自然界から見ると滑稽である。もちろん、社会的には男女は同権であり、社会的な違いがあってはならない。しかし、生理的、生物的には違いがあり、その違いは尊重されないとならない。
 妻の実家は会津の山奥である。15年ほど前、妻の祖母が亡くなった時、会津地方の伝統的な葬儀に驚いた。忌明けの食事が男女別であった。食べる場所も違う。男の席には魚があるが、女の席には魚がなく、野菜ばかりである。男と女で明白に分けている。男女の陰陽を明らかにしていることの証ではないかと思う。マクロビオティックの陰陽でみたら、素晴らしいことだと思う。会津の豪雪地帯では、男は男、女は女、陰陽が明白になっていなければ生きてこられなかったのではないかと思う。
 大森の言う「難しい男女の結び合い」というのは、何千年と続く男女の陰陽観が崩壊したことを言っていたのである。大森は私の生意気な言葉を、ニコニコして聞いていた。一方の私は、今思うと、大森の言葉は当たっていたと、素直に思える。
 「一姫二太郎」子どもを授かるならば、一番目に女児、二番目に男児が理想的だという諺である。女の子の方が体が強く、病気にも罹りにくい。実際、乳幼児死亡率は統計開始以来、女児の方が少なく、男児の方が高い。新米ママには生命力のある女の子の方が育てやすいというわけだ。子育てに慣れたところで男児を産んだ方が、男の子が育ちやすく、さらに上の女の子が下の男の子を面倒みてくれる。小さいママ(ホントのチーママ)が一番目の女児というわけだ。
 私たちのダレひとりとして例外なく、父と母の精子と卵子が結ばれた受精卵を命の元としている。そして、母のお腹の中で十月十日育まれ、この世に誕生している。母のお腹の中での初期のころは男女の違いはないという。むしろ、元々、私たちはすべて、女であったようだ。その女である生命が、陰陽の働きによって、男は男になり、女は女にとどまったようなのだ。陰性は遠心力が強く、陽性は求心力が強い。陰陽の物理である。母のお腹の中で、初期の頃、遠心力という陰性なエネルギーを浴びて生殖器が体の外に飛び出したのが男児である。一方、女児は求心力という陽性なエネルギーが勝ったので、生殖器が体の中に留まり、女児となった。
 赤子においては男が陰性で女が陽性ではないかと私は考えている。そして、それがゆえに、陰は陽を求め、陽は陰を求めるように、男は陽性を欲し、女は陰性を欲する。わが家の子育てでも、子どもへの食養指導でも、多くの場合、男児の方が陽性な食を欲することがとても多い。女の子がおいしく食べているみそ汁を、男の子は薄いと言って、味噌や醤油を足すことはしばしばである。さらに、男の子は動物性を欲することが多く、穀菜食の家の子でも、男の子は菜食では満足しない子も少なくない。食養の家庭で女の子は素直に育っている子は多いが、男の子では菜食に反発する子も少なくない。陰陽でみたら、よくわかる。
 陰性な男児は陽性を求めて陽性な男になり、陽性な女児は陰性を求めて陰性な女になる。食養ではこの陰陽を理想としている。しかし、現代はこの陰陽がバラバラ、または極陰極陽という不調和になっていることがとても多い。大森が「現代で男女が真に結ばれることこそ難しい」というのは、この陰陽の乱れを言っていたのだ。(つづく)

体の大掃除、できていますか?

 「やっぱり時々、断食は必要よ」と奥さんから忠告されて、和道に3年ぶりに来てくれた男性がいた。エントロピー増大の法則にあるように、万物は秩序ある状態から少しずつ無秩序に向かうというけれど、私たちの体も年をとるということはだんだんいろんなものにほころびが出てくる。家も掃除をせずに放っておくといつの間にかほこりが溜まり、蜘蛛の巣が張り、床や壁、天井までも色が褪せてくる。私たちの体も同じで、放っておくと老廃物が溜まって汚くなる。
 断食は体の大掃除だと、つくづく感じる。そして、定期的な大掃除は家も体も絶対に必要だと思う。自分の体をみても、多くの人たちをみてきても、掃除ほど大切なものはないと思う。
 握りこぶし大の子宮筋腫が七つあった女性が、8年ほど前に和道の食養合宿に参加した。子どもをなかなか授からなくて、病院で診てもらったら、「ホルモン剤を入れて子宮筋腫を小さくして、筋腫を切除して筋腫を半分くらいに減らしてから人工授精すれば、子どもが産めるかもしれない」と言われた。ホルモン剤に手術、人工授精、三重にも人工的なことをしないと子どもを授からないといわれて彼女は「嫌だな」と思ったという。
 それならばダメもとで、一年間真面目に食養をやって、断食を定期的・集中的に取り入れて、旦那さんからの後押しもあって、実践した。そうしたらびっくり仰天、筋腫が小さくなって数が減って、受精卵が着床できるような子宮になった。そして、2年後には赤ちゃんが自然に授かって生まれた。彼女が断食の他にも取り組んだのが掃除だった。和道に来ては毎回毎回掃除、自宅でも徹底的に掃除をして、体の中も家の中もすっかり綺麗にした。特にトイレ掃除には熱をこめた。
 断食は体の大掃除。体が掃除されると、そこで下す判断はまず間違えない。
 もう一人、別の女性の話。結納した後に同棲を始めたら、彼との間で価値観の違いがいろいろ出てきてしまった。あれも違う、これも違う。ワクチンのこと、コロナのこと、食養のこと。まだ結婚もしていないし、赤ちゃんも授かっていないのに、子どもの教育はどうするのかまで話が及んで、あまりに堅物な考えの彼女に、とうとう彼が嫌になって、「結婚は無理だな。別れよう」って言われてしまった。そうしたら彼女は何をしたか。普通、大人は嫌な事があったりすると、やけ酒といってお酒を飲む人が多いけれど、彼女は断食をした。やけ断食(笑)。妹さんの家に転がり込んで一週間のやけ断食が終わって、彼の元に帰ってみたら、彼との関係性が変わっていた。彼の方が折れた。「もう一回仲直りしてやってみようか」って。
 以前、すべては関係性であるとコラムに書いたけれど、自分の体の中が変わると人間関係も変わる。やけ断食を終えて家に帰った彼女の顔や仕草、言葉が彼の中の何かを解きほぐしたのかもしれない。
 行き詰まらない生き方を身につけたら人生よりよく回っていく。それでも、もし行き詰ってしまったら、断食をしたらいい。食を断って体を芯から休めてみたら、私たちは案外、底力が湧いてくる。
 奥さんから「断食は必要よ」と言われて断食に来た男性は、特別病気があったわけではないが、自分の中で何かパッとしないものを抱えていたようだ。それが何であったのか、断食前には気づかなかったのが、断食をしてみたら、それが明確になったという。年の暮れに大掃除をするのも、「これでおしまい」だからではなく、次の年を迎えるために大掃除をしている。私たちもまた、次のステージに進むために断食という大掃除をするような気がする。

素食文化にマクロビオティック

 正月早々、台湾に断食合宿と講演に行ってきた。この断食合宿と講演は、数年前からお付き合いのある日本語が流暢な台湾人の女性・法樺さんがコーディネートしてくれた。法樺さんは日本でマクロビオティックを学び、私の講座や断食合宿にもたびたび来てくれて、無双原理と食養を身につけていた。法樺さんはヨガの指導者としても有名で、台湾の新竹(しんちく)という都市でマクロビオティックのレストランとヨガスタジオを経営している。さらに、日本語、中国語、英語が堪能で、今回の断食や講演では完全に私の通訳に徹してくれた。八面六臂という言葉は彼女のためにあるのではないかと思うくらい、多方面で活躍している。
 そんな法樺さんのお陰で、素食文化が息づく台湾でマクロビオティックを普及することできた。素食とはある種の精進料理である。日本でも明治以前は肉食は禁忌だったから、日本も独自の菜食文化が発展していた。日本では禅宗(曹洞宗、臨済宗、黄檗宗)が精進料理を守ってきたが、台湾でも仏教や道教のお陰で菜食文化が今も根づいている。
 桜沢如一は西欧でマクロビオティックを禅の現代版として普及した。禅とは言葉のとおり、単純(シンプル)を示す。Simple is best(単純こそ尊い)。単純とは素直である。日本での素食は一汁一菜の簡素な食をいうが、台湾での素食は、より多くの人たちが満足する菜食のご馳走である。いわゆるもどき料理が発展している。肉、魚、卵、乳製品のもどき料理は、ホンモノそっくりでビックリする。さらに、台湾は日本よりも添加物の規制が厳しいから、台湾で有名な夜市(よるいち)でも楽しめる素食があるから素晴らしい。日本のお祭りなどで並ぶ露店では考えられない。
 台湾の菜食人口は10%以上という。これはインドの菜食人口30%に次いで多い。台湾の人口は約2300万人だから、300万人位の人たちが菜食ということになる。インドは熱帯地域、台湾は熱帯~亜熱帯地域に属する。このような温かい、暑い地域では菜食がベストである。
 台湾でのマクロビオティックの歴史は詳しく調べていないのでまだはっきりしないが、以前に田中愛子先生から、台湾でマクロビオティックを教えたことがあると聞いた覚えがある。それでも、ここ数十年はマクロビオティックの普及はなく、今回のイベントは画期的なことだったのではないかと思う。断食合宿や講演会にそれぞれ30人以上の台湾人が参加してくれた。多くの人が、日々の食や生活で実用的に応用できる陰陽を、マクロビオティックを通して知ることとなった。「自分の病気は自分で治す」という自然界では当たり前のことに、台湾の皆さんも日本の人たちと同じように驚いていた。
 マクロビオティックは身土不二、一物全体、陰陽調和を基本としているが、これは地球を一つの生命体として見た時に、当たり前の現象を言っているに過ぎない。マクロビオティックの原理原則は、地球上、ドコでもダレでも、イツでも実践できる、ホントに簡素な食と生活法である。この禅的な生き方を陰と陽という考え方に乗せて普及したのが桜沢如一である。そして、この生き方を追求していく先に世界平和がある。台湾でもそのことを何度もみんなに語り掛けた。平和な社会は私たちの一口から始まる。
 台湾では今年、正食食養協会が発足する。台湾でマクロビオティックが盛り上がることは、日本人を大いに刺激する。台湾だけでなく、南米でも東南アジアでも、そしてヨーロッパでもマクロビオティックは息づいている。桜沢如一の蒔いた種は、着実に根を張り、実っている。「素直な心は素食から」を忘れずに、日本も台湾も、そして世界でもマクロビオティックの普及に精進したい。

悪寒がするときは大根湯

 インフルエンザが流行っているようだ。悪寒から始まって、発熱、咳がなかなか良くならないという相談が暮れからとても多い。コロナの最中は、多くの人が風邪に氣をつけて、外出も控えめにしていたので、流行性感冒はコロナ流行時であっても少なかった。コロナがあけて人の動きが活性化したというのも、インフルエンザを流行らせている要因かもしれない。とはいえ、コロナの時も言っていたが、ウイルスは人がいなければ生きていけない存在だから、インフルエンザウイルスであっても、人を弱らせて死に至らしめるものではない。体とウイルスの調和反応が、いわゆる風邪であるから、症状に沿って自然な手当てをしていけばそれで大丈夫。無理な解熱や咳止めは必要ない。
 悪寒を感じたら、大根湯を飲んだらいい。大根おろし、生姜おろし、好みで醤油を入れて、三年番茶やしいたけスープ(干し椎茸を煮だしたスープ)を注ぐだけで出来る。大根と生姜の簡単なスープで体のデトックスができる。
 昨年の暮れから風邪をひいている人たちを見ていると、ひとつ共通していることがある。運動不足で冷えがあり、お米や漬物をあまり食べていない人がとても多い。今回の風邪に限ったことでなく、風邪体質の人に、そのような傾向がある。よく動き、お米のごはんに漬物をよく食べる人は風邪知らず、である。
 私は「雑用という名のトレーニング」と称して、暇さえあれば雑用をこなして体を動かす。ジムに行かずとも、日常の生活の中で体を鍛えることは十分できる。一見すると面倒な雑用も、体を動かして免疫力を高めるトレーニングであれば、こんな有り難いことはない。
 世の中の本当のことは、ドコニモあり、ダレデモそれをつかむことができる。観察し咀嚼することで私たちは判断力を高めることができる。特別な能力を有しない限り、真実を知ることができないなんていうことは、ない。自然界にそんなケチな根性は一切ない。自然を観察し、自然に生きることで私たちは健康で自由に、そして平和に生きていくことができる。シンプルイズベスト。
 簡素な生活の中にこそ本質がある。行き詰ったり、悩んだり、病気や不幸が訪れたら、簡素な生活に戻ることである。
 今年はどんな年になるか、楽しみである。米国では大統領が変わり、政策も大きく転換されるだろう。軍事も医療も大きな変化があると思う。世界の紛争も一氣に収束するかもしれない。コロナワクチンもネガティブな情報が沢山出てきて、ワクチンをきっかけにガラッと自然な生き方が見直されるかもしれない。
 情報が一瞬で地球の裏側にまで飛んでしまう時代、私たちは判断力さえそれなりにあれば、ダレからも支配されずに自由に生きていくことができるはずである。グローバルな視点でものをみて、ローカルに地に足をつけて生きていく、これがこれからの自由な生き方のスタンダードになるような氣がする。地球も一物全体であるから、一物全体な視点で、身土不二という地に足をつけた生き方がグローバルスタンダードになるように努めることがマクロビオティック運動ではないかと思う。
 支配しようとか、コントロールしようとか、そんな無理なことは続かない。支配する側も、される側も、疲れてしまう。ただ自然に生きていく、こんな楽しいことはない。Let it be、あるがままに生きていくことは無上の喜びである。そのためには、一物全体、身土不二、そして陰陽調和な生き方・考え方は基本になるだろう。
 マクロビオティックはどんな宗教の人も、企業の人も、女性も男性も、老いも若きも、ダレもが実践できるものである。そんなマクロビオティックを普及する人たちを一人でも多く輩出したいとも思う。今年も一歩一歩、コツコツと歩んでいきたい。

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
3月9日(日)21:00~(日本時間)ホセ・ルイスさん(アルゼンチンの食養指導家)と対談講演(オンライン・録画視聴可)をします。ご興味ある方は私のFacebookからご覧ください。

早期教育はダレのためか?

 「磯貝さんのところは何で子どもが6人もいるんですか?」オモシロイ質問をしてくる人が時々ある。
 「ナンデダロウネ~笑」とお茶を濁すわけではないのだが、いるものはいるのだから、しょうがない。昔の日本人は10人以上も子がいる人たちも少なくなかったが、この少子化時代に6人というのは珍しい。稼げど稼げど、どんどん出ていくから、私の財布は山を流れる渓流の川である。血液の流れもいいが、お金の流れもいい。少しはたまってほしいと思うが、血液によどみがないのがよくないのか、お金も一向にたまらない。
 昔の鍼灸では「とめ鍼」といって、子どもができて出来てしょうがないご婦人に鍼をさして妊娠しない体にしていたのだが、現代は不妊鍼灸といって、不妊の人たちに鍼灸をするわけだから、ここ数十年で人々の身体はコロッと変わってしまった。肉、卵、乳製品、人工甘味料、食品添加物など、戦前は口にしないものが当たり前の社会になってしまった。さらに、現代の動物性食品はホルモン漬けで急成長させられたものばかり。
 どこかの作家が、今の親は「早くしなさい、早くしなさい」と急かすけれど、その教育を煎じ詰めると「早く死になさい」になるんじゃないかと皮肉的に書いていた。単なるアイロニー的文章というわけではなく、世の真理をついた言葉ではないかと思う。促成栽培的に急かされて造られた動物食ばかり食べていると、「早く、早く」という心理になってしまう。食べ物が体をつくり、心をつくる。
 日本や韓国、中国、この東洋の国々は、稲作文化が根底にある。稲作は一人で行うことはできなく、共同作業を基本とする。稲作になくてはならない水は、隣り合う田んぼどうし仲良く平等に使ってきた。稲作を中心とした百姓暮らしは、周りの人々との調和的生き方が根幹にあった。時が巡って社会が変わっても、この稲作文化の横並び心理は変わらずあるように思う。隣の子どもが塾やピアノ、サッカー、テニス、英会話など習い事をしていたら、ウチの子にもというのが親の常だ。
 多くの人たちに競争心というものがあるから、隣の子よりも少しでもデキがいい方がいいから、「早くしなさい、早くしなさい」となるのかもしれない。現代の促成的肉食と稲作文化の心理が、変に絡み合って現代の早期教育を流行らせているのかもしれない。やはり、コメにはみそ汁と漬物が合うのだ。コメに肉をつけて食べると、体も心も変になることは、食養指導を通して確信している。
親はどこをみて子育てしているのだろうか?
子どもをみて子育てしるのだろうか?
世間や隣近所をみてはいないだろうか?
親は健康で幸せで自由なのだろうか?
 ダレだって子ども達には幸せになってもらいたいと思っている。食べるもの、住むところ、お金に不自由しない生活を送ってほしいと思っている。だけれども、昔の人達は「子に美田は残すな」と言って、自分の家族だけの繁栄という私利私欲を強く戒めている。桜沢如一も同じことを言っている。「よその子を育てることが、自分の子を育てることにつながる」
 中学生や高校生で「生きることに疲れた」といって私のところに来る子がいる。ほとんどの場合、経済的には裕福な家の子である。教育熱心な親に育てられた子が疲れて私のところに来る。私たちはこの世に遊びに来ているはずである。奴隷のように好きでもないことをやらされる人生をおくりにこの世に生まれてきたわけでない。健康で自由で、本氣が湧きおこってくるような人生を歩む、そんな生き方をしたい。そのためにはどんな食べ物を食べて、どんな生活をしたらいいのか、探求することである。本来の教育というものはそういうもではないかと思う。

望診法

 「先生にお会いするのは正直怖かったです」という人が時々いる。望診法のことを知っている人なのだが、私に自分の顔を見られて、欠点を指摘されるのではないかと戦々恐々としていたというのだ。
 望診法というのは、人相や手相でその人の内面を探りだすことにある。人相や手相に血液や細胞、内臓の状態が表れる。心身一如であるから、心の状態も人相手相に表れる。自分では意識していない、潜在意識も顔や手に表れる。そのことを知って、望診・食養相談を受ける人は、自分の欠点をこれでもかというくらい列挙されるのではないかと思って怖かったというのだ。
 ところが、いざ来てみたら、自分のよい所を誉めてもらって、「うれしくてうれしくて、飛んで跳ねるような気分になった」という。
 人相や手相には、上相・中相・下相がある。上相というのは、周りの人にいい氣を発していて、見ていて癒されるような、そんな気分にさせてくれる。赤ちゃんの笑顔を見ると気分が良くなるのは、そんな赤ちゃんの顔は上相の氣を発している。和顔施(わがんせ)といって、お布施の中の最も高貴なものは笑顔だというのは、自然な笑顔は上相である所以である。
 実はどんな人も、その人の中には上相・中相・下相を持っている。どんな悪人であっても、すべてが下相ということはなく、ほんのわずかでも何らかの上相を持っているものである。今、世間を賑わす、兵庫県知事は、私の目から見たら上相がたくさんある。いい人相をしている。マスコミが揃いもそろって大バッシングしているけれど、実際の仕事は兵庫県政の大改革をしていたわけだ。ある情報によると、神戸港湾の利権にメスを入れたことが今回の騒ぎに発展したという。(このコラムは2024.9.30に書いていました)
 人相はウソをつかない。人相や手相はウソをつけない。
 兵庫県知事を持ち出して恐縮だが、人相に上相がたくさんあるのであるが、それでも線の細さは否めない。私も含めて現代人は、若い人になればなるほど線が細くなる。線が細いというのは、言葉通り、顎や首が細いことを表す。望診では昔から、線が細いのは大事を成さない、と言われて、大事業を完成させることは難しいといった。ところが、人はハンマリング(叩かれる)を受けることで、線が太くなる。兵庫県知事は、あれだけのハンマリングを受けても、引かずに立ち向かっていく。今はまだ線が細くても、今のハンマリング(叩かれること)できっと大人物になるはずである。
 一方で、周りの人に嫌な気をまいたり、不安にさせたり、心配させたりするのを下相という。恐怖感を抱かせることも下相である。下相がまったく無いという人は聖人君子以外にはなかなかいないが、それでも下相の顔がちょくちょく出てくるのは問題である。顔色がわるく、血色がうすいのも下相である。よい血液が流れていないことが下相である。
 和道にちょくちょく来る人で、手の指の爪が全指黒色になっていた人があった。70代後半の女性であった。手の指の爪がすべて黒色になるのは、死相といって、死が近いことを表している。ところが、和道に毎月のように来て、生姜シップで手当てをして食を正しているうちに、少しずつ黒色が薄くなってピンク色が出てきた。高齢なので、家での食事は完全に食養はできなく、和食を心がける程度であった。それでも、毎朝欠かさずくず湯をとっていた。
 自分の出来ることを日々コツコツと実践していたら、齢80を超えて、死相が消えたのである。今でも毎月のように会っているが、日々血行が良くなっている。人は高齢になっても、小さなことでも日々の精進を怠らなければ、下相を上相に変えることができるのである。
 下相を上相に変える日々の実践を中相という。中相というのは日々の精進・努力のことをいう。努力は天才に勝るとよくいわれるが、これは中相の極意である。人相でも上中下というと、中相は中間の相と思われがちであるが、中庸の相である。特別な能力を備えることを中相というのではなく、ダレでもできる日々の小さな実践をコツコツ続けていくことが中相である。
 人相や手相だけではない。言葉や立ち居振る舞い、家やその場の雰囲気にも上相・中相・下相がある。日々の中相の実践で、上相が大きくなり、下相が小さくなる。そんな日々を送ることそのものに大きな意味がある。

食養料理と手当てのバイブル

 「お小水が出なくなってしまいました」と電話があったのが、私が食養指導に関わりだした当初のころである。師の大森英桜の傍らで食養指導を学んでいた時であった。食養では利尿作用として、第二大根湯(大根おろしの汁を2~3倍の水で薄めてパッと温めたもの)、小豆の煮汁、とうもろこしのひげ根の煎じ汁などを活用するのであるが、どれを試してもお小水は出てこないという。
 お小水が出なくなってなんと9日も経つという。その間、いろいろな飲み物も試したので、体はパンパンに浮腫んでしまっていた。尿毒症になってしまっていたのかもしれないが、力が入らず、意識もうつろな状態にまでなっていた。
 そんな時に大森の指導は、「小豆と鯉を一緒に煮て食べろ」という。食養料理では「小豆鯉」というが、小豆と鯉を一緒に煮合わせたものである。お小水が出なくなった人が早速、家族に鯉を調達してきてもらって、小豆と一緒に煮合わせて食べてみた。そうしたらビックリ、お椀一杯食べただけで、お小水がタラタラと出始めるようになった。時間をおいてもう一杯食べたら、もっと出るようになった。小豆鯉を日に三杯、3日続けて食べたら、普段のお小水に戻っていった。食養の力に驚いた。
 その後、食養指導をしながら、小豆鯉が登場することはめったになかった。腎不全でも、第二大根湯と生姜シップ(お腹や背中に)でほとんどの人が腎臓が温まってお小水の出が良くなる。血行不良がひどく、冷えの強い人には第二大根湯に生姜汁を加えて飲んで、生姜シップを念入りに2~3時間すると腎臓が活性化してくる。これを何日も続けるのだが、ネフローゼの少年で2週間ほどこの手当て法を実践して腎不全を改善した例もある。
 小豆鯉はどのような人に効くのであろうか。
 お小水が出ないというのは、汗が出ないのと同じように陽性である。体に溜まったものが外へ出ていかないわけであるから、体に求心性の陽性な力が働いて水分が出て行かなくなっている。そんな状態の人には陽性な毒素を溶かす大根や生姜を活用する。
 鯉は川魚であるが、動物である。お小水が出ないという陽性な状態になぜ動物という陽性を使うのであろうか。
 大森の説明は、鯉は動物性の中でも陰性な方で、陽中の陰という位置にあるという。そして、腎不全が進行し、陽性であっても体力が低下し、陽きわまって陰になった状態では、鯉の陽性さ(植物性に近い陰性さのある)が功を奏すという。実際に、腎不全が進行すると、体力が低下し食養の五つの体質でいう「陰性の萎縮」になってしまうことが時にある。そんな状態の人には動物性食品も必要になる。
 小豆鯉は穀菜食Bookの中にも登場する。数少ない動物性の料理のひとつである。
 穀菜食Bookはその名の通り、穀物と野菜(海の野菜・海藻料理も)の料理が中心である。日本人は特に、穀物と野菜と海藻、そして風土に合った発酵食品で元気に暮らしていくことができる。だが時に、陰性が強くなった時には身近な動物性の陽性が必要な場合もある。陰陽の目を持って、体の陰陽に合わせて食事をして、症状の陰陽に応じて手当てをしていけば、自分が自分の医者になることができる。医療の自給自足ができる。穀菜食Bookは「自分で自分を治すバイブル」である。
 自然治癒力というように、治癒力というものは自然に湧きおこってくる以外にない。病気は医者が治すのではなく、体の自然性が治しているのである。その自然性を引き出すコツが穀菜食Bookに詰まっている。

マクロビオティックを続けるコツ

 「マクロビオティックを無理なく続けるコツって何ですか?」と尋ねられることは少なくない。
 マクロビオティックな生き方が板についていると、こういう質問にはパッと答えられないのだが、マクロビオティックを続けている家庭とそうでない家庭を数多く見ていると、わかることがある。
 人が継続できることは「おいしい、心地いい、気持ちいい」ことである。その逆を続けることは、なかなか難しい。武道やスポーツ、学問を極めた人たちであっても、嫌なことを無理やりに続けてきたのではなく、辛いことはあっても好きなことを続けていったにすぎない。人間は理性の生き物であるが、生きものとしての本能はどこまでいっても持ち続けている。新聞ニュースをにぎわす人間模様を見聞きしていても、やはり人間は動物的な本能が優位な生き物だと思わざるをえない。
 マクロビオティックを無理なく続けるコツは、とてもシンプル、「おいしいごはん」である。自分だけでなく、家族も、「マクロビオティックのおいしいごはん」を食べていたら、ほかの料理にいって帰ってこないなんてことはない。子育てにおいて、子どもたちの「未知のものを知りたい」という欲求は人間の本質的なものであるから、マクロビオティックで育ってきた子どもであればなおさら、一般的な食事に強い関心を持つ。肉、卵、乳製品、魚、砂糖や人工甘味料を使ったスイーツや飲み物が簡単に手に入る環境であれば、それらを食べてみたいと思うのは、正常な感覚である。
 私は子育てをとおしても多くのことを学んできた。子ども達の感性と感覚は基本的には正しい。その感性を潰さず、スクスクと伸びることを見守ることは、やはり体にも心にもやさしい「おいしいごはん」を作ってあげることだと思う。
 わが家には6人の子がいる。上の子はもう21才。19才、17才、14才と続いて、下の子二人はまだ小学生である。上の子3人はかなり厳格な食養で育てた。家でも外でも完全菜食にこだわっていたから、年に数回ある外食はすべて蕎麦屋。それも自前の醤油を持ち込んで食べていた。学校にももちろん弁当を持たせていた。私たち夫婦はそれが「正しい」と思っていたから、子どもたちは何か違和感があったようだが、それを言えなかった、らしい。21才の長女と当時のことを話すと、蕎麦屋に醤油を持っていったのが「すごく嫌だった」と、笑い話になっていて救われた。
 上の子たちは、私たちに隠れて、外のものも食べていた。特に甘いお菓子は「やばいくらい、うまかった」らしく、コンビニの店員さんと仲良くなるくらい通っていた、らしい。男の子は隠すのがヘタで、タンスの奥からカビの生えた菓子パンや食べかけの菓子がニオイと一緒に発見されたりしたから、知っていたが、女子たちのそれはよく把握していなかった。女はこわい。。。
 高校生にもなると、友達と外食の機会も増えるから、菓子だけでなく、動物性も食べる機会も増えてくる。次女は中学生まで動物性が一切食べられなかったが、高校になって、少しずつ食べる機会が増えてきたら、いつの間にか食べることができるようになってきた、らしい。友達と一緒にファミレスなどに行って、ニオイを嗅いでいるうちに慣れていったのかもしれない。
 上3人は完全菜食のマクロビオティックで子育てをしてきた(小学校高学年くらいから少しずつ買い食いが増えてきたが)。体は元気で、スクスク育ってきた。ただ、友達との付き合いや関係性を上手に築けたかというと、なかなか難しいものがあった、らしい。それでも、子ども達は、自分の体と感性に誇りをもっている、のがよくわかる。
 学校生活での嫌な思い出もあるが、「マクロビオティックのおいしいごはん」が自分の基礎になっていると言っている。妻の作る食養料理を子どもたちはいつも「おいしい」「おいしい」と言って、よく食べていた。中高生になって外の味も覚えてきたが、それでも家のご飯が一番おいしいと言っている。今でも家のご飯以上に美味しいものは食べたことがない、という。妻のごはんの基礎になっているのが、大森一慧先生のごはんである。一慧先生のごはんを一番わかりやすく伝えているのが穀菜食Bookだろうと思う。

ジャネの法則と陰陽

 ついこの間、正月を祝ったような気もするが、もうふた月もすればまた次の年だから、光陰矢の如し時が過ぎるのは早い。近所の人との立ち話でも、時が過ぎるのが早くなったという会話はすでに常套句になっている気がする。なぜ私たちは年を取れば取るほど、時間の流れを早く感じるのか。
 フランスの哲学者、ポール・ジャネの時間に関する説は明解だ。
 「心理的な時間の長さは、これまで生きてきた年数の逆数に比例する(年齢に反比例する)」という。逆数とは0を除く数を1で割ったもの。5の逆数は5分の1、8の逆数は8分の1となる。同じ1年でも、10歳の子どもの頃に感じる時間の心理的な長さは50歳の頃に感じるそれと比べると、1/10対1/50で、5倍も長く感じられるという。50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるが、10歳の人間にとっては10分の1に相当する。50歳の人間にとっての5年間は10歳の人間にとっての1年間に当たり、50歳の人間の5日が10歳の人間の1日に当たることになる。10歳の人間の1日は、50歳の人間の5日間に相当するわけであるから、50歳の人間に比べると10歳の人間の1日は「濃い」ことになる。逆にいうと、50歳の人間の1日は10歳の人間の1日に比べると「薄い」ということになる。
 生きてきた年数によって一年の相対的な長さがどんどん小さくなることによって、時間が早く感じるというわけだ。
 陰陽で考えるとさらにおもしろい。心理的に感じる時間の長さはその人の陰陽の度合いによるということでもある。動物は陽性で生まれ、陰性で死んでゆくとマクロビオティックでは捉えている。ちなみに植物は陰性で誕生し、陽性で終わりを迎えると捉えている。
 子どもは大人に比べて陽性と考える。陰性になるほど時間の感じ方が短くなってゆくといえる。気が長い人は気短な人に比べ陰性である。瞬発力という陽性は年とともに衰えていくが、思慮深さという陰性は年とともに増してゆく。ジャネの法則は陰陽の法則ともいえる。
 時間の心理的な長短は、人間個人だけでなく、個人の集合体である社会や文明にも当てはまるのではないかと思う。
 昔の原始的な生活は、暖をとるのにも薪をあつめて火をおこし寒さを凌いでいた。これは私たち人間が体を動かすことで陽性化し、寒いという陰性な環境に適応していた。ところが、現代文明は物質文明といわれるようになり、私たちの日々の生活は石油や電気エネルギーに依存している。太陽光、風力など自然エネルギーもあるが、人の力を介さないエネルギーという点ではどんなエネルギーも人を陰性化させる。エネルギーに依存した生活は一見便利ではあるが、人間の体をどんどん陰性化させる。
 私たち現代人は、運動不足で体は陰性化させられているが、情報社会の中で脳にはさまざまな情報が詰め込まされて、脳は陽性化させられているように思う。脳は陽性に凝り固められているから、パソコンやスマホがないと情報を取り出せない、ということにもなっている。
 人間の体を陰性化させる物質文明は、年相応の時間よりもずっと多くの時間を私たちから奪っているともいえる。時間ドロボウから時間を取り戻すには、人間本来の生き方を探求すること以外にないのではないかと思う。