商いは飽きない

 「商いは飽きない」と云われます。商売をしていくうえで、売り手も買い手も飽きてしまうような商売をしていたら、その商売は続かない、ということを端的に言い表しています。しかし、この言葉は商売だけでなく、あらゆることに通じています。「商い」を仕事や夫婦に置き換えてもいいでしょう。勉強や部活、家事や育児、人が継続的に行っていくことであれば何でも置き換えることができます。
 人が継続的に行っていくことに「飽き」が来ることは必然と言えます。飽きは秋に通じます。秋の後は必ず冬が来ます。商売に飽きが来れば、次に来るのは冬の時代。商売は振るわず、冬の寒さで閉店を余儀なくされることも珍しくありません。冬の寒さを耐え忍んで何とか冬を乗り切れば、次には春が来ますから、商売も春の勢いに乗って成長していけます。
 飽きは秋であると捉えるだけで、人生は大きく違ってきます。春夏秋冬に終わりはありません。すべては巡りです。
 飽き(秋)の後には冬が来ますが、冬を乗り切れば春です。冬を乗り切る体力と気力を充実しておくことが、商売でも夫婦関係でも、勉強や部活動でも、あらゆることにおいて大事なことです。もし仮に冬を乗り切る体力と気力が無かったらどうするか? 冬を乗り切る体力と気力を冬の間につけるしかありません。大変なことであるのだけど、それしかありません。冬を乗り切る体力と気力は生命力そのものです。私はその生命力をつけるのに最も有効的なことが断食だとおもっています。正確には生命力を高める「はじめ」に断食があります。人によれば断食をしただけで生命力が高まる人もいますが、そうでない人もいます。そうでない人も断食をして腸をキレイにすると食べ物の生命力を吸収する力が最大限高まりますから、結果として断食が生命力を高める「はじめ」になるのです。
 よく考えれば、リスもクマもヘビも、冬は多くの動物が断食をしています。冬眠と称する断食で生命力を高めています。
 人間社会でも飽きが来ないよういろいろと工夫をしています。学校では小学校、中学校、高校と区切りをつけて、卒業式や入学式で心機一転、新たな門出を演出しています。入社式や研修もその一つです。結婚式や銀婚式も夫婦の門出になっているでしょう。もちろんそれらも十分吟味された素晴らしい行事ではあるのですが、それ以上に、飽きを解消するのは断食が一番です。
 自然界に目を向ければ断食は特別なことでなく、ごく自然なことであるのです。自然界の動物の仕切り直しと門出に断食があります。それは時に病気であったりもします。ですから、病というものは人生の「飽き」と言えるのです。
 断食そのものが改善になる人と、改善のはじめになる人、それぞれですが、飽きを打破するもっとも大きな一歩に断食があります。

観を育てる

 我が家の子どもたちは、夜、時に布団の上で大運動会をすることがあります。起きている間はもちろん、大騒動ですが、寝静まってからも一呼吸置いて大運動会がはじまることがあるのです。あっちへ行き、こっちへ行き、と部屋を一周することもあります。これはもちろん寝相のことです。
 普段はそれほど動き回らないのですが、時にもの凄い寝相で親の顔の上に足が乗ってくることもあります。
 数年前に観た芸者さんが主人公の映画がありました。その中で夜寝ている間中寝返りを打たずに微動だにしないよう寝相においても鍛錬する場面がありました。これは昼間の稽古で心身ともに力を出し切ったその結果として、質のよい深い睡眠の表層現象として寝ている間微動だにせず、ということがあらわれるのです。
 寝相も心身の浄化作用です。昼間溜め込んだ余剰エネルギーを夜寝ている間に無意識に発散しているのが寝相における動です。一方、心身ともに無理なく、無駄なく、ムラのない状態にあると寝ている間であっても微動だにしないのです。これは静。メリハリという言葉があります。これは陰陽の別名ともいえます。
 子どもたちは日中に十分に遊び疲れないと夜にその余ったエネルギーを寝相で発散させているのです。それが大人になると不眠症になってしまうのです。
 心身ともに「出し惜しみせず」その場その場でまさに一所懸命、ちからを使い切る。そうすると何よりも心もからだもスッキリして身が洗われる。力を出し切ることによってからだに滞っていたものが流れ出し、浄化されていくのです。さらにはカンが育ってくる。小さな子供であれば感が育ち、もう少し大きな子供であれば勘が育ち、大人であっても観が育ってくるのです。カンを育てるとは心身の浄化のことなのです。
 和田重宏さんの『観を育てる』(地湧社)という本があります。その中で「出し惜しみしない生き方は行き詰らない生き方の基本だ」とあります。食養的に解釈してもとても納得する言葉です。
 出し惜しみしないとはちからを使いきる、やりきる、ということであり、食とからだの関係の上では食べた食物を消化しきる、吸収しきる、排泄しきる、ということです。
 消化吸収、排泄がしきれない食物をからだに摂り入れているとからだはコリや痛みや痒みとなって生理的症状としてあらわれます。心理的にも怒り、恨み、妬みなどの心のコリとして表出するのです。
 「疲れ」というものを考えてみてもそうです。疲れは心身のコリです。ちからを出し切らない、発散しきらない、コリを解消しきらない、それが疲れの本当の原因です。
 熱い夏、ただそこに居るだけで汗をかくとおもいます。汗をかくと皮膚がベタベタして嫌な感じになることもあります。しかし、からだを充分動かし、汗をかききるととても清々しく、爽快感がでてきます。汗ひとつとっても「かききる」とコリがほぐれてからだが浄化されていくのです。
 陽性な人ではからだを弱アルカリ化させるお茶や椎茸スープや野菜スープなどを摂りつつ汗をかききることが重要です。一方陰性な人では梅干や梅生番茶、醤油番茶などの塩気を摂りつつ汗をかききると心身ともにすっきりします。
 行き詰るとは心身にコリがあるそのことを行き詰って教えてくれているのです。「からだと心にコリがあるよ」と行き詰り自体が教えているのです。行き詰まりは「生き詰まり」であり「息の詰まり」です。
 行き詰ってしまったら、呼吸という陰陽を調え、食の陰陽を調え、断食や塩断ち(無塩食)をして胃腸のコリをほぐすことです。何もしないことでからだの中では溜まった毒素を「排毒しきる」ちからが強くはたらきます。仕事にしても遊びにしても家事にしても子育てにしても「やりきる」こと、一方、からだの中では毒素を「排毒しきる」こと、それが行き詰らないコツであり、観を育てるコツであるとおもうのです。

共感と自然治癒力

 自然治癒力(免疫力)を高める最も大きなもののひとつに「他者との共感」があります。
 同じ病気の人同士が会って話をするだけでも、そこに大きな共感が生まれて、治る力を後押ししてくれます。体の病気だけでなく、同じ心の病気や同じ不安や心配を抱えている者同士の語らいも自然治癒力を高める大きな要素になっています。
人は他者と共感することで、不安で重くなった心を軽くします。心が軽やかになると、今の自分を俯瞰して見ることができます。自分自身を客観的に見つめることができると、今やらなくてはならないこと、やった方がいいこと、やれること、心身の整理がついていきます。
 世の中を見渡すと人は足を引っ張り合いながら生きている人もいますが、人は本来、人間同士、磨き合いながら生きていくことができます。人と人が切磋琢磨しあって生きていくということは、陰陽でみると中庸なことです。陰に偏ると妬み拗ねみが強くなり、陽に偏ると罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせたり、暴力を振るったりすることさえある。陰に偏っても陽に偏っても、人は不安定になっていくのですが、他者との共感は陰陽の偏りを中庸へ戻すハタラキがあります。
 食養指導を通して多くの人と関わらせてもらうなかで気づいたことです。不安な心を持っていると、その行動は一見するとムダな動きが多いものです。面談や電話で食養相談をしていても、本人の不安が拭い去らないと、疑問質問が多いばかりで実践が伴いません。ところが合宿や個別指導を通して泊りがけで生活を共にすると、実際の食養生活を体験することと、合宿の仲間や私との共感が大きな後押しとなって食養生活が軌道に乗っていきます。
 「迷ったら行動」私の心がけていることのひとつです。家の中で、日々の生活の中で、指をくわえて待っているだけでは、人生は好転しません。人生は行動と実践のなかから好転していきます。
 私の所に尋ねてくる人の多くは、人生の迷いに直面した人たちです。私も人生の迷いをマクロビオティックに救われたのですが、思い返せば、後に師匠になる大森英桜との出会いからでした。大森英桜に出会ったことで、自分の志すマクロビオティックの強い共感が湧き起こり、人生の一歩を踏み出せたのです。大森に会いに行こうという行動が無かったら、今もドコかでさまよっていたか、早々にあの世に行っていたかしれません。人生はオモシロイものです。行動が人生を左右します。共感が生きる力を湧出させます。人はパンのみにて生きるにあらず。人は新しい出会いの中から新たな力が湧き起こってきます。

自然と化学物質

 自然を見渡してみると、毎日、朝日が昇り、明るくなって、鳥や動物たちは動き回って、もちろん人間も活動して、夕日が沈んで、暗くなって、夜になります。曇りの日や雨や雪の日もありますから、毎日が明るいわけではありませんが、夜のように暗い日はありません。自然は毎日、暗い時と明るい時を交互に私たちに与えてくれます。もしも私たちが自然と一体的な生活をしていたら、自然のリズムに同調して、曇りや雨や雪の日のように気分もカラッとしない日が時々はあっても、ほとんどは毎日体も心もスカッと晴れやかで、夜になったらパタッと眠ることが出来るのです。
 朝日が昇って来ても寝床から起き上がれなかったり、夜になっても眠ることが出来なかったり、夜中に何度も目が覚めてしまうのは、体が自然から離れているよ、というサインであるのです。自然はスマートです。自然はリズムがあって心地よいものです。私たちの体と心も自然に同調していればスマートでリズムある生き方ができるのです。もし、そんな生き方ができていなかったら、体の中に不自然なものが溜まっているのか、または今も身体に不自然なものをため続けているかです。
 食べ物から不自然を取り込むことが現代では一番大きな元凶になっています。動物食や人工的なインスタント食品、化学添加物が使われたお菓子や総菜など、一般的な食糧品店のほとんどがそれで、自然な食品を探す方が難しい。
 食品だけではありません。洗剤や化粧品、衣類なども自然なものはほとんどなく、界面活性剤や人工染料を使ったものがほとんどです。住宅においても同様です。人工的な接着剤などを多用した住宅はシックハウス症候群が発症するくらいです。日本の国会の議員会館でもシックハウス症候群に悩まされる議員がいるくらいですから、日本の建築も食品と同様、根本的な問題があります。
 私たちの身の回り、特に衣食住に関しては、自然なものに囲まれて生きることが最も大事なことです。自動車や電車、飛行機なども移動の多い現代にあっては、衣食住に次ぐ触れる機会の多いものです。これらにも化学物質がたくさん使われています。長野新幹線が開通したばかりの頃、新車の新幹線「あさま」に乗ったら、ものすごい化学臭で閉口ならぬ閉鼻してしまいました。車にも化学物質がたくさん使われていますが、その化学物質を極力使用せずに車を作ろうと努力している海外のメーカーもありますから、日本車メーカーにも化学物質の弊害を伝えることは大事なことです。
 では、なぜ化学物質が体内に入ると私たちの体と心に問題を引き起こさせるのでしょうか。昔、実験用のネズミの背中にコールタールを塗ったら、背中がガン化したという話はあまりに有名です。ごま油とか菜種油とか植物性の油は肌にいくら塗ってもガン化しないのに石油を塗ったらガン化してしまう。これはいたって簡単なことで化学物質は体の中でうまく分解できないのです。化学物質の毒素をガン化することで分解解毒しようとしているといったらいいでしょう。
 そういう点からすると化学物質過敏症の方々は「いいものはいい、よくないものはよくない」という細胞レベルでの判断力がすぐれている人と言っていいでしょう。
 人間がこれから永続的に元気に暮らしていくには化学物質との付き合い方を再考しなくてはなりません。

 現代の病気と健康を考えると、化学物質は一番大きな問題を孕んでいます。化学物質が私たちのからだに入り込んでいなければ現代にある病気の大半はないでしょう。生活習慣病の根本原因に化学物質があります。欧米化された食生活が問題と云われますが、ヨーロッパの伝統的な食生活は身土不二に根ざし、病気を多発さるようなものではありませんでした。病気の根本原因はヨーロッパの伝統的な食生活ではなく、欧米が先駆けた化学物質が取り込まれた食生活にあります。
 肉、卵、乳製品、さらには養殖の魚介類などは、成長ホルモン剤や抗生物質抜きには語れません。家畜は自然な育て方をしていたら安価で毎日食べられるような食品ではないのです。
 動物食は、動物食そのものの問題ももちろんあるのですが、それ以上に動物食から取り込まれる化学物質に大きな問題があるのです。
 現代のマクロビオティックでは私たちの体に染みついたこれらの化学物質を如何に解毒するか、という問題が大きく横たわっています。生まれた時から化学物質を孕んでいるのが現代人の特徴です。さらに、生まれ落ちた環境にも化学物質がふんだんに使われ、食品にまで化学物質が入り込んでいる。宇宙的なものの見方をすれば、汚れた川に生み落とされたのが私たちであるのです。しかし、逆に考えると、汚れた川の掃除にこの世に舞い降りてきたのが私たちでもあるのです。
 化学物質を一切使わない生活は、飛躍過ぎて、現代ではなかなか難しい。もちろん、一切の化学物質を使わない生活をする人がいることは人類の叡智になります。ただ、多くの人と歩を進めていくのに現実的に努力できることは、まずは食べ物の化学物質を減らして、無くしていくことです。食べ物から化学物質が体内に入らなければ、人間は自然な生き方に目覚めます。自然な生き方が心地よく、元気と本気が湧き起こってきます。化学物質が入らない体は「やすらぎ」を感じます。人間は心底やすらぎを感じた時に本当の力が出るようになっています。
 体の中の化学物質を解毒排毒していくことが、現代のマクロビオティックの大きな使命です。食養の食べ方と生活に化学物質を排毒する術がつまっています。掃除、玄米食、断食は排毒には必須です。もちろん玄米や断食が合わない人がいますから、体質と体調を考慮することはひじょうに大事です。そんな人のために半断食や塩断ち(無塩食)を進める場合も多々あります。
 食に陰陽があるように化学物質にも陰陽があります。排毒症状に陰陽の症状があらわれます。毒素の陰陽に合わせた食と手当て、生活を繰り返していくことが、浄身、浄血、浄心に繋がります。この世の掃除に舞い降りた人生、キレイになることが何よりの喜びです。そんな人が一人でも増えたら、この世はきっと本当の意味で楽園になることでしょう。

判断力を高める

 判断力は直観力、感覚力、考察力、思考力、決断力、行動力、そして生命力を統合した力ではないかとおもう。
 以前まで代表を務めていた「こくさいや」では生産者から届いた野菜を袋詰めする仕事がある。人参やジャガイモを1キロ、2キロなどと正確に袋に詰めなくてはならない。セイカクには1キロであれば1キロにプラスニ~三十グラム余計に袋詰めしなくてはならない。
 慣れない者が行うと人参を1キロにするのに時間がかかる。1キロ60グラムになったり、980グラムになったりと中々1キロプラスαが難しい。ところが、慣れた者が行うと、躊躇なくピッタリ1キロ30グラムに計ることが出来る。何度かやり直ししながらというのはまだプロの域ではなく、人参やジャガイモを見たり手で触ったりしながら、計り直すことなく、一回の計測で目的の重さに計ってしまう。
 これは感覚力のたまものである。視覚と手の感覚で野菜の重さを瞬時に判断しているのだろう。
 競馬の武豊騎手は、騎乗している馬が石を踏むと、自分も石を踏んだような感覚になると云う。まさに人馬一体である。
 体操の一流選手は自分で演技しながらも、客観的に自分の演技を見ている自分がいるという。
 サッカー選手も一流になると、ピッチで駆け回っていながらも、グランド全体を見渡している自分もいるという。サッカーボールを自由自在におもいのままに動かすのは人玉一体というのか。。。
 大工や伝統工芸の職人も、工具が自分の一部になって、家や工芸品を作ってしまう。
 人間の感覚力はAI(人工知能)ではまだまだ到達しえない能力と領域が存在する。
 人工では決してできない生命を誕生させることは、これは女性にしかできない。男性の力をかりて、女性にしか、命を生むことはできない。命があった上での競争は男性やAIの得意とすることかもしれないが、命を生むことは男性にもAIにも絶対にできないことである。
 いつの世でも生命が生きていくのに一番大事なことは、判断力を高める努力を、面白く、楽しく、生活の中で実践していくことである。楽しいものでなくては続かない。
 マクロビオティックは判断力を高める生き方である。
 判断力はさまざまな生きる力の総称である。競馬でもサッカーでも家造りや伝統工芸でも、それぞれに生きる道の中で、食と生活を通して判断力を高めていくことである。AIであっても、AIを生み出す技術者も食と生活がなくてはAIを生み出すことはできない。AIも間接的には食と生活があってこそである。
 すべての道で、その道を究めようとするならば、食と生活が秩序あるものでなくては、極めることはできない。むしろ私たちは、それぞれの道を歩まさせていただきながら、その道を通して、食と生活の真理を学びにこの世に降り立っているのかもしれない。食と生活は大自然につながった、自然そのものと言っていいのだから、私たちは自然というものの中で生かされていることを様々な道を通して認識するために生きているのだろう。
 判断力を高めることは本当に易しいことである。好きなことをコツコツと実践することである。秩序ある食と生活で無かったら、好きなことも道半ばまでしか続かない。秩序ある食と生活を伴って好きなことをコツコツ続けていくことが、判断力を高めるコツである。
 判断力を高めることを、運命を開くと云ってもいい。行き詰まりを解消する道といってもいい。好きなことを実践することが判断力を高める。

テンパる転じ、、、

 「テンパる」という言葉は俗語と云われるが、若者世代では広く認知されている。麻雀の聴牌(てんぱい:もう一枚の牌が入れば上がれる状態になること)が語源になって、最初は「準備万全の状態になる」という意味から、「余裕がなくなる」「あわてて動揺する」「焦る」などの意味に変わっていったという。
 藪(やぶ)医者も元は、藪(やぶ)に住む腕のいい医者が広く知られるようになって、そのうちに腕の立たない下手な医者までもが、藪医者と名乗るようになってから、藪(やぶ)医者は下手な医者になったという。言葉はその発生から意味が逆になることが少なくない。言葉も生き物であって、陰陽の変化が激しい様を物語っている。
 テンパった状態では物事はうまく進まない。何事も余裕のない状態で続けていると、どこかで必ずほころびが生じる。
 時々テンパるのはしょうがない。人は言葉に出して、自分の置かれた状況と状態を把握する生き物である。若者が「テンパってる」と言うのは、自分の状況と状態を客観視して、本能的に冷静になろうと努めているのだろう。ある種のストレス発散でもある。
 幼子はもっとすごい。嫌な時にはオギャーと泣いて、ストレスから解放されたら、ケロッとしてニコニコしている。子どもは友達や兄弟とケンカしても仲直りが早い。大人はひとたび大人同士ケンカをしたら、修復は難しいから、そう簡単にケンカすることはないし、できない。嫌なことがあってもググッと奥歯をかみしめて、ガマンすることがいかに多いか。
 子どもと大人の心の中を覗いてみたら、どっちの方が「テンパっているか」、一目瞭然だろう。
 テンパっているのは心だけではない。からだの細胞と臓器に余裕がないからテンパってしまう。からだの状態を心が鏡に映し出している。脳にはミラーニューロン(鏡の神経細胞)があるといわれる。習うは「倣う」ことからというのも、このミラーニューロンが脳を刺激するからである。ミラーニューロンは視覚などの感覚からの刺激だけでなく、からだに溜った毒素を脳の中に鏡写ししているのかもしれない。
 断食をしたことのある人はテンパった状態がいつの日か転じているのを感じたことがあるだろう。「禍を転じて福と為す」と云われるが、断食は禍を招く前に、福に転ずる生き方である。マクロビオティックそのものがそのような生き方であるが、断食を組み入れることは、その生き方を確固とする
 テンパっている人、テンパらない生き方をしたい人、ご縁ある方に断食(半断食)をおすすめしたい。現代社会そのものがテンパっている今、断食が社会の変革を促すものだと確信している。

笑顔と挨拶の偉力

 それほど昔の話ではありません。
 九州のある地域一帯でほとんどの学校に泥棒が入って、大規模な被害があったそうです。そんな地域の中で一校だけ、泥棒に入られずに、被害にあわなかった学校があったというのです。
 どんな学校だったのでしょうか。貧乏学校で、今にも潰れてしまいそうな学校だったのでしょうか。
 そんなことはなかったようです。
 その後に泥棒さんは捕まり、真相が明らかになりました。
 泥棒さんは盗みに入る前に、それぞれの学校を綿密に調べていたそうです。建物の様子、先生や生徒のようすまで詳しく調べてから盗みに入ったといいます。
 そして、一校だけ盗みに入らなかった理由を刑事が聴くと、その泥棒は「あそこだけは入れなかった」と言ったそうです。あの学校だけにはどうしても足を踏み入れることができなかった、というのです。おもしろいことです。
 下調べでそれぞれの学校を巡った時、その学校の生徒にヒミツがあったというのです。
 盗みの被害から免れた学校の生徒たちは、何とも清々しい言葉で「おはようございます」「こんにちは」と誰ひとりの例外なく、下調べに来た泥棒に挨拶をしていたというのです。
 もちろん生徒たちは泥棒さんを泥棒と把握していたわけではありません。どんな人にでも笑顔で挨拶する習慣がついていたのです。 その様子を目の当たりして、泥棒さんはどうしてもその学校だけには盗みに入ることができなかったのです。
 「芸は身を助ける」と云われます。「笑顔と挨拶は人を救う」というのは大げさでしょうか。
 人はダレでも生きるならばよりよく生きたいと心のどこかにおもっています。よい気を発して生きていきたいとおもっています。
 笑顔は人を癒します。言葉は人を救います。もちろん逆もあります。
 仏の道でも笑顔は最高のお布施と云います。
 笑顔と挨拶は、植物にとっては花のようなものです。きれいな花を咲かせるには、キレイな土と水、自然な光が必要です。
 笑顔と挨拶がまわりの人たちを癒し救うことができるかどうかは、日々の食と生活にヒミツがあることを知らなくてはなりません。

生老病死

 人間の生老病死は、この世に生を受けたものには必ずおとずれる。生まれたものは、老いて、病んで、亡くなっていく。皆ダレにも死がおとずれるから、生がイキイキとしたものになる。生まれるだけで、死がなければ、一生死ねない苦しみに苛まれるのは想像に難しくない。
 現代の人々の生老病死をみていると、生病老死または生病死がいかに多いことかと考えさせられる。
 人間は老いて病が出てくるのは自然である。ところが現代は老いずして病がでてくることが非常に多い。人間の本来の生老病死であれば、老と病は短い期間であるのだが、病院の延命措置は病と老が引き延ばされて、命の本来からはずっと遠いものになっている現実がある。
 現代一般の食と生活では、老いずして病気を発生させていることに気づかなくてはならない。
 私の祖父は、私が生まれる前の四十代の頃からパーキンソン病を患い、病んでいる期間が長かった。私は祖父と会話した記憶さえなく、私が物心つく頃には、祖父のパーキンソン病は重篤なものであった。私が小学6年の時、祖父は肺炎になったのをきっかけに、脳の機能が急激に低下し、ついには植物状態になってしまった。
 当時わが家は4世代同居の大家族であった。明治生まれの曾祖母、大正生まれの祖父母、昭和生まれの両親、そして私と弟。曾祖母は、実の息子が植物状態になり、家で寝たきりになっているのをどんな心境でいたのだろうか。祖父の完全介護を三年、祖母が中心となって自宅で続けた。
 祖父の人生は病の長い、生病死であった。
 祖父の人生があったからこそ、私はマクロビオティックの素晴らしさに気づいた。生老病死でいう病は、死の前段階にあるが、老いる前の病気は本来、からだの健全なハタラキとして体を健康に向かわせる。発熱も腹痛も、痒みも体を調整しようと起こっている反応にすぎない。祖父の病を長引かせた一番の原因は、体の反応を無視した、クスリの服用であった。パーキンソン病を患う以前から、ちょっとした不調でもクスリを服用する習慣がついていたという。
 祖父の経験を糧としてマクロビオティックを実践すると、本来の生老病死というものがよく理解できる。
 今年の二月、祖母が91才で亡くなったが、その死は本当に穏やかなものであった。眠るように、ダレ一人として迷惑をかげず、まさに飛ぶ鳥跡を濁さず、という状態で家族に見守られながら亡くなった。
 マクロビオティックは世界の伝統的な食事法と生活法が基本である。日本であれば日本の伝統的な食事と生活が基本となる。陰陽というモノサシで伝統的な生き方を実践することがマクロビオティックである。難あり、有り難しの心持ちで生きていたら、すべての困難に感謝して、生老病死の人生を生きていける。

がんが自然に治る生き方

 半年ほど前、食養合宿(半断食)に来られた男性から、『がんが自然に治る生き方』ケリー・ターナー著プレジデント社、という本を紹介された。
 著者のケリー・ターナーさんは腫瘍内科学の研究者で、ハーバード大学時代に統合医療に興味を持ったという。その後、博士論文研究でがんが劇的に寛解した1000件以上の症例報告論文を分析したという。末期の進行がんから「劇的な寛解」に至った症例報告が世界には数多くあるのに、ダレもそれについて研究しないことに違和感を持ったケリー・ターナーさん。彼女は1年間かけて世界10か国へ出かけ、奇跡的な生還を遂げた人たち100人以上にインタビューしてわかったことがあった。
 余命宣告から「劇的な寛解」に至った人たちには実践する様々な共通事項があった。その中で、末期がんから自力で生還した人たちほぼ全ての人たちが実践していることが9つあることに気づいた。この本では、自然治癒力を引き出した9つの実践項目が章立てになっている。
① 抜本的に食事を変える
② 治療法は自分で決める
③ 直感に従う
④ ハーブとサプリメントの力を借りる
⑤ 抑圧された感情を解き放つ
⑥ より前向きに生きる
⑦ 周囲の人の支えを受け入れる
⑧ 自分の魂と深くつながる
⑨ 「どうしても生きたい理由」を持つ
 この9項目に順位はないという。人によって重点の置き方が異なるものの、劇的寛解の経験者はほぼ全員、程度の差はあれ9項目ほぼすべてを実践していた。
 わたしが指導させていただいた、末期がんから生還した人たちにも共通していて、驚くとともに納得した。そして、世界中に自然寛解した事例が論文になっているだけでも1000件以上あるということは、論文になっているのはごく一部のようであるから、相当数の「自然に治った人たち」がいることを証明している。
 抜本的に食事を変えることは、がんは生活習慣病であるのだから、がんになった食事を抜本的に変えるというのは大前提のことである。
 抜本的に食事を変える中で、治った人たちの多くが断食を経験していることは興味深い。
 断食は最大の解毒方法である。がんという毒素の塊を排毒・排泄させるのに断食は最も大きな力となっている。がんを発生させない食事とともに、定期的な断食が体に溜った毒素を排泄してくれる。
 この本を紹介してくれた男性は合宿に来る半年ほど前に肺がんが判り、医師から余命6カ月の宣告を受けていた。和道に来た時ちょうど宣告の6カ月にあたっていたのだが、食事を変えて、生き方が変わったら、宣告を受けた時よりも元気になって、がんから遠ざかっていると感じているという。
 現代の日本はがんが生活習慣病であることを忘れている。食事と生活を変え、体と心が変わってくれば、がんは治る。そのことを『がんが自然に治る生き方』が多くの事例を紹介しながら証明している。

 この9つの習慣を身につけるのにはコツがある。
 「直感に従う」ことは、簡単なことではあるのだけれど、社会通念の強い人であればあるほど、難しい。テレビやニュースから流れてくる情報を鵜呑みにしていたり、世間体や家族の顔色を伺って日々生きていると、自分の中の直感が鈍って、からだの治る力に蓋をしてしまったままの状態が続いてしまう。
 人を含めて生物はすべて、病を治す力を体内に内在している。人間でいえば、治る力の心の発動として直感がある。直感は味覚、嗅覚、聴覚、視覚、皮膚感覚の五感と密接に連動している。これらの五感が鋭くなってはじめて直感は活動的となる。
 直感は、体の中のキレイな血液である。キレイな血液が多ければ多いほど、直感が冴えるのであるが、がんをはじめ、どんな病気の人であっても、キレイな血液、キレイな細胞を持ち合わせている。これらのキレイな血液や細胞に従うことが、体全体をキレイな血液と細胞で満たすことになる。
 「抑圧された感情を解き放つ」ことが末期がんから生還した人たちに共通していたことは、心身一如、心と体は同じであるということを物語る。体にシコリやカタマリのある人は心にも抑圧した感情が大きな塊となって存在する。体をほぐすことと、抑圧された感情を解き放つことは同時進行的であるのが望ましい。体のコリ・シコリが解れてくると抑圧された感情が解放されてくるのであるが、抑圧された感情を解き放そうと意識を向けると、より深いところの感情が解放されて、体のより深い所のコリやシコリが解れてくる。
 人は本来、心地よいことは積極的に行動し、心地よくないことはしない。抑圧された感情やコリとシコリが増えた体は、心地よくないことをしてきたり、心地よくないけれど、しなくてはならないと錯覚して生きてきてしまったのだ。食べものにおいても、からだの芯の細胞が喜ぶようなものばかり食べていたら、心にも体にもコリ・シコリはできなかった。ただ、この世というものは、慈悲深い。私たちの心と体にコリやシコリを作って、コリのない体、シコリのない心がいかに素晴らしいかを教えてくれる。

 がんだけでなく、多くの病気に共通しているのは、心と体を抑圧してきた生き方にある。生き方の中心を成すのが食べ物・食べ方である。食べ物、食べ方が不自然なものであれば、言葉や行動でそれらの排毒をしようとするから、家族や身の回りの人にそれらの毒素を振りまいてしまう。毒素の発散方法がスポーツや運動、歌などに向けられれば、他の人への迷惑にならないのだが、往々にして他者へ向けて毒素を発散させてしまうことは少なくない。
 抑圧された感情を解き放つのは、体の中の抑圧された毒素を解毒・排毒させることが近道である。体の中のコリやシコリは抑圧された感情と同じである。
 抑圧された感情を家族や友人、仕事の同僚などへ、憂さ晴らしのように発散すれば、「毒素の塊」と、周りからの目が定着してしまい、家族であっても離れていってしまう。
 抑圧された感情を解き放つのに最もよい方法は、食を断つことである。断食をすると、体の中のコリとシコリが分解解毒されていく。コリとシコリの排毒反応で体がだるくなったり、頭痛がしたり、足が重くなったりすることがある。それらの排毒反応の時は、排泄されている毒素を解毒できるような飲み物を摂って、ゆっくり休むか、大いに体を動かすか、その時の状況にあわせて対処すれば、驚くほど短時間にスッキリして爽快となる。
 体のコリとシコリが解れてくると、抑圧されていた感情が自然と解放されてくる。人間とは不思議なもので、抑圧された感情が解き放たれると、抑圧されていたこと自体に有り難さを感じる。難あり有り難し、という感覚をはじめて知る。
 体のコリ・シコリが解れ、抑圧された感情が解放されると、人間は自然と前向きになる。生きることの喜びを全身で味わうことができる。そんな生き方を求めて生きていると、自然と周囲の人は応援してくれて、中には協力に支えてくれる人が出てくる。
 自分の病気から始まり、自己浄化を求めて生きていると、様々なことに気づくようになる。
 病そのものは気づきであったこと、難しい問題は自らの鍛錬であったことを知る。周りの人がいなければ自分は存在しない、自他一体の考えに至る。自分の魂は太陽、大地そのものであることを知る。魂(たましい)は「玉強い」であり、「玉静い」であることに気づく。この世に存在するものはすべて動いているように、私たちもまた「動いていたい」「生きて、その喜びをみんなでともに分かち合いたい」と自然にそんな気になってくる。

掃除と人生

 私の人生の大半は掃除に関係することだと、あらためて感じる。毎朝、家と道場の掃除から一日がはじまる。道場に宿泊客が来ていれば、その人の身心の大掃除の手伝いが私の仕事になる。断食合宿の時は、合宿そのものが心身の大掃除となり、私はその先導役兼お手伝い。道場や各地で行う食養相談は、心身の掃除法を指南することであるから、私の仕事の大半どころでなく、ほぼ全て掃除に関わる。
 睡眠はそのものが心身の掃除の時間である。食養家はありがたいことに、食事そのものも心身を掃除するものであるから、わたしは寝ても覚めても、掃除をしている。
 とはいえ、日々の掃除で心身が浄化されてくると、人はどうも欲があって、ついつい働き過ぎてしまう。過ぎたれば及ばざるに危うし。働き過ぎても身体を汚す。不思議なことに、心に余裕のある時、呼吸は深いが、心身の余裕がなくなると呼吸が浅くなる。深い呼吸は身体を掃除するが、浅い呼吸は身体を汚す。
 私たちの血液は、掃除役の血液がある。白血球が体の掃除役を代表する血液である。白血病は掃除役の白血球が減少したり、異常に増えたりするわけだから、体そのものがおかしくなったのか、掃除が追い付かないのか、どちらかである。
 病気そのものは、体と心の掃除のハタラキとしてあらわれている。掃除が行き届いていない時を未病といい、行き詰って、体の掃除が強制執行されたとき、病気が現れる。病気になったら、ただひたすらに、掃除に励むことである。
 掃除は不思議なことに、身の回りをキレイにすると、身の内がキレイになっている。私はこれを「掃除の相似」と言う。病気であっても、なくても、掃除は人生で一番大事なことである。ガンの末期には、がん細胞が体外に出ようとする。消化器である口や肛門、生殖器の膣や乳房、あるいは皮膚からがん細胞が体外へ排出されてくる。立つ鳥跡を濁さず、と云うけれど、人は死の直前まで身体を掃除して生きている。卵巣がんの人が、口からガンの塊を吐きながら旅立ったこともあった。
 人はあの世にキレイな体で逝きたいのだと、多くの食養指導を通して教わった。死に装束を整えるのは、古人の直感が優れていたことを物語る。五木寛之が「明日死ぬとわかっていてもするのが養生」と云った。死は終わりのようでいて始まりである。命に終わりはない。自分の命はすべてにつながり、すべての命がまた自分の命につながっている。掃除は人生そのものである。