『脳は歩いて鍛えなさい2』

 前回に引き続き『脳は歩いて鍛えなさい』(大島清著 新講社刊)より
気持ちがうつうつとしたら、とりあえず歩いてみよう
――脳内の神経伝達物質の一つであるセロトニンが注目されている。歩いているとセロトニンが増え、爽快感が増すからだ。たしかにセロトニンは精神安定剤とよく似た分子構造をもっていて、興奮や不快感をしずめる作用がある。うつうつとした気分は、セロトニンの欠乏によって引き起こされることもあるので、気分が晴れないときはセロトニンをふやす神経系を活性化させるため歩くといいだろう。
 ただし、漫然と歩いていてもセロトニン神経系は活性化せず、セロトニンも増えない。セロトニンは規則正しいリズム運動の中で活性化するとされているので、歩くことに集中し、筋肉を動かしていることを意識することが大切だ。散歩というよりは、エクササイズとしてのウォーキングに近い動きが、セロトニン神経系の活性化には適していると言えるだろう。
 もう一つ、セロトニン神経系は、太陽の光によって活性化される。だから、できれば朝のすがすがしい時間に、その日昇ったばかりのフレッシュな太陽光を浴びて歩きたい。朝の時間帯はセロトニンと同じ脳内神経伝達物質であるドーパミンも増えているから、本当なら何もしなくてもすがすがしいはずなのだ。

 和道の食養合宿ではウォーキングを中心とした合宿も開催しています。朝から晩まで歩き続ける合宿です。自分の体力に応じて、ちょっとがんばりながらも、自分のペースで歩き続けます。距離も自分が歩けるだけ歩き、途中辛くなったらヘルプを呼んで、車で迎えに来てもらいます。10キロくらい歩ける人、20キロくらい歩ける人、30キロ歩ける人、さまざまです。
 2021.9に開催したウォーキング合宿でのことです。この時、一番長い距離を歩いた人は32キロ。参加者は10代から30代の若い人が中心であったのですが、32キロ歩き切った人は、最高齢の50代後半の女性でした。この人は歩きながら呼吸法を研究して歩き、辛くなった時に呼吸のコツをつかむことで最後まで歩き切ったのです。
 私もこの女性に伴走して32キロ歩いたのですが、30キロ近くなってきたら、ランナーズハイのような、恍惚感が全身を包むのです。歩いているのでウォーカーズハイですね。足先から手先までものすごく温かくなり、お腹はもうポカポカに温まっています。
 実はセロトニンの最大生産場所は腸であるのです。腸が活性化するとセロトニンがたくさん造られて、さらにリズム的に歩くことによって、脳に安定的に供給されるのです。大島清さんが言われるように、「とりあえず歩いてみる」ことは何よりの心の安定につながります。そして。セロトニンの原料となるのが、ごはん、みそ汁、漬物です。みそ汁、漬物には旬の野菜と海藻を使いたいです。これらのシンプルな食事と歩くことで私たちは心穏やかに生きていけると思います。

『脳は歩いて鍛えなさい』

 『脳は歩いて鍛えなさい』(大島清著 新講社刊)という本があります。著者の大島清さんは脳科学者で他にも多数の著書があります。今回のコラムは『脳は歩いて鍛えない』から抜粋して私なりに解説していきたいと思います。

――歩くことはさまざまな「情報」の中に入っていくということだ。家の中にいては大空の高さ、青さを感じることができない。坂を上がりおりすることも体験できない。木の枝にとまる小鳥も見ることができなければ、葉をゆらす風を感じることもできない。花の色や香りに足を止めるという体験もないだろう。それらの体験が、疲れた脳のマッサージになるのだ。

 私たちの日常生活の大半は、自然を感じるということからいかに離れてしまったかを歩くことで知ることができます。そして、感じることの大切さを思い知るのです。大島清さんは脳科学者ですから、人間の脳は歩くことでどれほど活性化してくるかを科学的に実証しています。そして、自身の生活でも実践し、94才になる現在も元気に活動されているのです。

――自分自身に自信を失った時も、とりあえず歩いてみるといい。自身を失うのは、新しい脳である大脳新皮質だ。その証拠にこの脳が人間ほど発達していないサルは、木から落ちても自身を失わない。何事もなかったかのように、また木に飛びついていく。一方私たちはと言えば、何か失敗をするともう立ち直れないのはないかという気になってしまうことがある。本当はそんなことはないし、やり直しはきくのだが、落ち込む時は、そんな理屈がすっと体に入ってこない。それはそうだろう、頭の同じ部分で考えているだけなのだ。堂々めぐりとはこんな状態のことなのだ。だからこんな時は頭の中の別の部分を働かせる。もっとしたたかで強い本能の脳だ。

 本能の脳は大脳新皮質の内側にあるようです。大脳辺縁系とよばれ、記憶や情動もつかさどり、生命の原始的な脳ともいわれています。理性の脳である大脳新皮質は「読み書きそろばん」で発達するのですが、本能の脳である大脳辺縁系は歩くという行為で活性化するというのです。自信を失っても、ただ歩くということだけで、本能の脳が活性化し、何かができそうな自信が再び湧いてくるのです。陰陽でみれば、自信を喪失するというのは陰性なことなのですが、歩いて陽性になると、いつの間にかまた自信という陽性が身につくのです。

精神の核

 昨年の正月休み、子どもたちに請われて映画を観に行ったのです。世界的大ヒットアニメ「鬼滅の刃」です。子どもたちの大はしゃぎに付き合う感じで観に行ったのですが、これがまた本当に面白かった。予想を裏切って映画にのめりこんでしまったのです。
 「鬼滅の刃」は現代版桃太郎で、いわゆる鬼退治なのですが、全てにおいて凝っている。観ているこちらの心にグイグイ入ってくるのです。私たちが観たのは無限列車編という映画であったのですが、そこに登場する鬼が妖術を使って人間を眠らしてしまいます。眠った人間は、眠りについたまま鬼にやられてしまう。眠ったままだから、痛くも怖くもなく、眠って夢心地のままあの世に送られてしまう。その鬼が言うのです。「人間は心の生き物だ。精神の核を壊せば、どんなに剣術に優れていようが、簡単にコントロールすることができる」。私も「そうだ、そうだ」と頷きながら観ていました。
 この鬼の妖術を、主人公である炭次郎が見破るのですが、その見破り方は呼吸を使うのです。呼吸を整えて、夢と現実を見定めるのです。鬼の妖術は夢と現実を混乱させて、人間を鬼の支配下に置くことなのです。この妖術を様々な呼吸を使って、夢は夢、現実は現実という正常な判断力を取り戻すのです。陰陽の見方でいえば、陰陽が混乱してしまったときに、呼吸という陰陽を鍛錬して、私たちの体と心の陰陽を調和させたのだと思うのです。
 「全集中の呼吸」というのも「鬼滅の刃」から有名な言葉になりました。足のつま先から全身の隅々にまで呼吸でエネルギーが行き渡った状態を全集中の呼吸で獲得するといいます。全集中の呼吸で私たちの精神の核は壊れずに済むというのです。
 精神の核とは一体何でしょうか?
 中心軸のない駒は回転しません。中心人物のいない会社や組織は機能しません。種(中心)のない植物も本来は存在しません。すべての生命に核(中心)があります。この核(中心)次第で、駒も会社(組織)も植物も、そのあり様が大きく違います。この核(中心)が壊されていたら、私たちの命はもう壊れているといってもいいかもしれません。
 私たちの精神の核というのは、環境によって作られたものだろうと思います。親や先生・先達たちからの影響も大きいでしょう。ご先祖からのエネルギーも膨大です。そして、日々の食べ物が肉体の栄養だけでなく、精神の核にまで時間を通して成長していくのだと思います。植物に種があるように、私たちの心の中心に核があります。しなやかで壊れない、たくましい精神の核は生命力ある食から育まれるのだと思うのです。生命力ある食から作られた精神の核を持っていなければ、全集中の呼吸をしても、精神の核は回復しないだろうと思うし、そもそも全集中の呼吸ができなかったと思うのです。
 翻って社会をぐるりと見渡すと、鬼滅の刃に出てくるような鬼の形相の鬼はいなくとも、私たちの精神の核を蝕むものはいかに多いことか。鬼滅の刃がヒットしたのも、世相を暗に表しているからではないかと、私は思ってしまったのです。しかし、炭次郎の所属する鬼殺隊のメンバーのように鬼を殺すだけでは根本的な解決にはならない。鬼にも子がいて、親鬼を殺せば、子鬼の憎しみをかうばかりです。鬼と人間の終わりのない戦いです。
 私が「鬼滅の刃」の作者ならば、最後に桜沢如一を登場させます。鬼の食い物を変えてしまうのです。食い物を変えて、鬼の心を変えるのです。鬼と人間の無限ループ的な戦いを食によって革命を起こすのです。簡単なことではないでしょう。簡単でないからこそやりがいがあります。
 マクロビオティックは食を通して世界の平和を実現させるものです。まずは私たちの家族から。

脳を鍛える

 脳を鍛えるというと、机に向かう勉強が思い浮かびます。もちろん、読み書きそろばん的な勉強も脳を鍛えるうえではものすごく大事なことです。しかし、現代人には脳を鍛えるうえで、「読み書きそろばん」よりもずっと大事なこととして「歩く」ことと「胃腸を休める」ことがあると思うのです。
 現代人は疲れています。食養と断食の指導で多くの人と関わっていますが、腸疲労と脳疲労を抱えている人がいかに多いか。最近のコロナの影響でも、心を病む人がものすごく増えています。コロナ自粛が、萎縮に繋がり、心と体の閉塞感を強めているように感じます。
 そのような状況下で、先日、和道ではウォーキングを中心とした食養合宿を開催しました。朝から夕方までずっと歩き続ける合宿です。自分のペースで「ただ歩く」のです。自分の体力に応じて歩けるところまで歩き続けます。長い距離を一人で歩き続けるのは大変ですが、仲間がいて話しながら歩くのはなかなか楽しいものです。「よい道づれがいれば、どんな道も遠くない」とドイツには格言があるようです。私たちは身の回りに、自分のペースと同じくらいのペースで歩く仲間がきっといるはずです。そんな仲間と、ただひたすら歩くのです。左右の足を順番に、一歩一歩踏み出していきます。
 私たちの脳は左脳と右脳に分かれています。左右の足を交互に一歩ずつ踏み出すことで、自然と左右の脳が活性化していきます。自分のペースで歩くことが、脳への規則的な運動になっていきます。神経細胞はある一定のリズム運動が好きのようです。アスリートがルーティンと称して同じポーズや姿勢をとったりするのも、脳を活性化させています。歩くことそのものがリズム運動であり、ルーティンといえます。
 スポーツ選手が辛くても競技を進めていけるのは、快感があるからだと思います。よい結果がでると脳から快楽物質が出るといわれますが、日々の練習でも繰り返し行うことで、脳は自然とリズム運動になって活性化しているのです。
 先日のウォーキング合宿でも様々な方が来られました。ガンの方、脳に障がいをおった方、ダイエット目的の方、人間関係のストレスが溜まった方など、それぞれに様々な問題を抱えています。どんな問題であっても、歩けるならば、ただ歩くことが、これほど問題解消に役立つのかとあらためて驚いたのです。体のことであれ、心のことであれ、ただひたすら歩くうちに問題の捉える私たちの心が変わっているのです。歩くことで私たちの陰陽が変化するのです。
 食養合宿としてのウォーキングですから、少食で臨みます。歩いて臓器を活性化させるだけでなく、半断食で胃腸を休めます。胃腸が休まると、それだけで体が軽くなりますが、断食を組み合わせることでさらに体が軽くなります。できる限り徹底して歩きますから、それだけ胃腸も刺激されて、古く滞っている大便や細胞のアカも落とされていきます。そして、不思議なことに、歩き続けていると、ある到達点に達するとランナーズハイならぬ、ウォーカーズハイといったらいいのか、何とも言えない幸福感に包まれます。脳の中の様々な快楽物資が歩き続けることで噴出したのではないかと感じたのです。

運命を開く断食

 食養指導をはじめて10年ほど経った時です。マクロビオティックな生活を実践していて、より元気になっている人とそうでない人がいるのに気づきました。元気になる人とそうでない人、病気が改善される人と改善されない人、その違いはどこにあるのか?
 その違いの一つは「断食や半断食」を取り入れているかどうかであると気づいたのです。 
 断食や半断食をじょうずに取り入れている人は、体質改善が進み、元気なのです。一万人近い人たちを食養指導してきて、断食や半断食を実践した人は、病気の経過もひじょうに順調なのです。
 断食や半断食は古くて新しい生き方です。古(いにしえ)の人たちが私たちに残してくれた大切な習慣であったと思います。人生の転機に断食や半断食を取り入れることは大きな一歩になると思うのです。そして、マクロビオティックのひとつの実践が断食です。前書の『自然治癒力を高めるマクロビオティック基礎編―正食医学の理論と実際―』もお読みいただければ、理解がより深まると思います。
 昨年夏に出版した『基礎編』は、早くもベトナムでの翻訳出版が決まりました。昨今では海外からも講演や食養指導の依頼が増えてきています(コロナで中断していますが)。マクロビオティックな生き方を歩む同志も全国各地、世界各国で増えているのです。私の所にもマクロビオティックな生き方を求めて若い人たちが数多く訪れます。若い世代にも断食や半断食の素晴らしさを継承し、時代に合った断食や半断食を残していきたいと強く思うのです。
 これからの時代は、志を同じくする人たちと連携しあって、社会を変えていくことが重要だと思います。この変化をより良い方に向かわせるために断食や半断食があるのではないでしょうか。
 断食や半断食を通して、食のありがたさを知るのです。感謝心というものが湧いてくるのです。そして、奇跡とも思える治癒例に遭遇すると、奢る心と蝕む体は、貪る食から湧いていたことを感じるのです。
 断食や半断食を通して一人でも多くの人の人が好転していくことを願っています。
『自然治癒力を高めるマクロビオティック実践編―運命を開く断食―』あとがき、より

素晴らしい欲のかき方

 「陰陽の奴隷になっている人は多いと思います」
 桜沢如一の最後の弟子の一人であった勝又靖彦(1940~2017)は、『陰陽の考え方を身につけて直観力を高める』(キラジェンヌ刊)の中でそういいます。
 ビール、ステーキ、カレーライス、唐揚げ、ケーキなどを欲して、食べないといられない、というのも食の執着です。一方、ビールやステーキなどのこれらも、食べてはいけない、というのも逆の意味での執着ということになります。
 断食というのは、「食べないといられない」「食べてはいけない」という執着心を薄くしてくれると感じています。
 勝又先生は『陰陽の考え方を身につけて直観力を高める』の中でこう続けます。
 「陰陽が分かると、自由になれます。(中略)全体的な視点です。それが見えてくると、ひとつの取引がダメになっても心配しなくなります。必ず世の中は陰陽でできていますから。必ず別の方から新しい取引が出てくることを何度も経験すると、それは疑うことすらなくなるくらい明らかになってきます。そうすると、ある人ともめていたとしても、そこで相手に勝つ必要もない。次はいい事があるわけですからね。一人の女の子にアタックして、どうしても振り向いてもらえないときでも、「確かにそうだな。俺にも至らない点があるな、申し訳ないことをしてしまったなぁ」と思っていると、もっと素晴らしい女性と出逢えます。それが世の中のメカニズムですから。世の中に悪いものなんて何もない。全部自分を育ててくれるありがたい機会なので、それを桜沢は「難あり、ありがたし」ということばで表現しているんですよね」
 断食というのは短期間で陰陽を体感するものすごく大きな行いではないかと思うのです。陰陽を孕んだ中庸を体感する行といった方がいいのかもしれません。
 執着心は生きている限りなんらかの形で人間は持っています。執着心は物欲のひとつの表れでもあります。執着心を消したい、無くしたい、とおもっても、そう簡単に消えて無くなるものではありません。
 人は欲が多くなると忙しくなるようです。
 あれもやりたい、これもやりたい、あれも欲しい、これも欲しい。やりたいことと、欲しいものが次から次へと出てきて、出てきたものを全部つかみ取ろうとすると、人は忙しくなります。忙しい、忙しない、という字は、「心を亡くす」と書くように、際限のない欲は、心を失ってしまいます。しかし、失ってはじめて、その有難さを痛感するものでもあります。際限のない欲は、実は私たちに大きな気づきを与えてくれているものでもあるような気がするのです。
 車のアクセルやブレーキに「アソビ」があるように、私たちの心にも「アソビ」がなくては人生をうまく進めないのではないでしょうか。アソビのないアクセルとブレーキの車は、急発進と急ブレーキを繰り返してまともに運転することができません。私達も同様、心と体にアソビがなければ、うまく生きていくことができないと思うのです。
 人間の欲というものは、自分の内側に抱え込もうとするエネルギーだから、陰陽でみると陽性です。陽性が強くなればなるほど、欲張りになって、自分の内側にばかりに目がいって、周りのことが見えなくなってしまいます。
現代の人間の欲には際限がないように見えます。科学技術は人間の欲によってつき動かされています。
 ところが人間には自然そのままの体があります。どんなに欲望の強い人であっても、地球上に永遠に生きていられません。自然は人間を100年前後であの世に送り、この世が人間で溢れかえらないようにしてくれています。人間の欲は部分的に観ると際限ないように見えても、その実は限りある儚いものです。
 和田重正(1907~1993)は、人間の欲は、歩みを進めると無欲になりたいという欲が出てくる、といいました。人間の欲は、無欲欲なるものに行きつくから、人間はそのものが欲であるといったのです。大森英桜(1919~2005)も「無欲は欲が無いのではない、無限を求める欲をいう」といったのです。
 私達は自分の欲の質を高めることに力を注ぐことが潔い生き方ではないかと思うのです。自分だけが得しようという欲は、周りの人が喜ばない。自分も周りの人も、みんなが元気になって喜ぶような、そんな欲ならば、どんなに大きくても際限のないものでもいいと思うのです。
 欲はその質によって、多くの人から喜ばれたり、嫌がられたり、疎まれたり、羨ましがられたり、いろいろです。どうせ欲をかくならば、たくさんの人から喜ばれるような、そんな欲をかきたいと思うのです。そういう欲をかける心と体でありたいと思うのです。
 人間の欲というものは、汗と一緒ではないかと思います。汗は身体から出てきますが、欲は心から出てきます。いい汗をかける人間は、いい欲をかける人間でもあると思うのです。いい汗をかこうと食と生活に目を向けて、日々精進していれば、欲も質が高まってくると感じるのです。そういう意味において、断食とはいい汗をかける体をつくり、いい欲をかける心をつくるものであると深く感じるのです。
 断食は私たちの心にアソビを与えてくれると感じます。心にアソビができることで、自分の欲を俯瞰することができます。自分の欲を俯瞰できたら、やはり自分だけでなく多くの人が喜ぶような、そんな欲をかきたいと思うようになるのが、食養の道であり、断食の道のであると思うのです。

コロナワクチンと食養

 コロナワクチンの大規模接種がはじまり、国民の多くがコロナワクチンを接種する状況になっています。コロナワクチンを打ちたくなくても、職業上やむを得ない人も少なくないといいます。政府やマスコミは全く触れませんが、ワクチンを打たなくても、免疫力さえ高ければ自然抗体が、言葉の通り、自然につくのです。国民の不安をあおって、金と時間をかけてワクチンを打ちまくるよりも、その国の民族本来の食と生活を取り戻し、衛生的で活動的な暮らしをするだけで感染症は自然に治まっていくのです。
 免疫力の高い体には病原菌や病原ウイルスは繁殖するはずもなく、むしろスーパー免疫力などといわれ、集団の中でそのような人がいると自然と集団免疫がついて、その集団は感染症を免れるという研究まであるほどです。昨年の春、新型コロナウイルスが流行しはじめたという頃、医療現場にそのようなスーパー免疫力を持っている医師や看護師を送り込もうという試みがあったようです。その試みの結果はまだわかっていませんが、もし本当に新型コロナウイルスが蔓延しているようであれば、それなりの効果が出ていてもおかしくありません。
 やむを得ずコロナワクチンを打ってしまった人も、自分の体の免疫力を高く保つことは何より大事なことです。コロナワクチンには微弱なコロナウイルスとともに様々な化学物質も含まれているといいます。これらの排毒と排泄にも私たちの免疫力が大きな役割を担っています。
 私たちは衛生的で活動的な生活をするには、日本人であればお米を中心に食べていないとなかなかできるものではないのです。米を食べることは、日本人が数千年来続いてきた自然環境を守ることに繋がります。さらには、日本人をはじめ東洋の多くの人の腸内細菌はお米との相性が抜群に良く、東洋人はお米を中心に食べていると腸内環境が安定するのです。私たちの体は免疫の中心は腸にあります。お米を食べることは体外環境においても体内環境においても、もっとも大事なことであるのです。
 日本人の米の摂取量が減り続けています。統計のある1950年と比べると今は半分以下、三分の一に近いほどまで減っています。
 私は声を大にして言いたい。コロナワクチンよりも伝統的なお米を食べることです。日本人を含め東洋人はお米を食べることで生命力が高まります。玄米にこだわらなくてもいいと思います。白米でも分搗き米でも何でもいい。まずはお米を食べることが現代の日本人には大事だと思うのです。
 とはいえ、コロナワクチンを接種した人はコロナワクチンに含まれる様々な化学物質を排毒排泄する必要があります。半永久的に体に残るなどともいわれますが、私はそんなことはないと思います。私たちの体は異物を排泄しようという働きをちゃんと持っています。2016年にノーベル賞(医学生理学賞)をとった大隅良典さんのオートファジー(自食細胞)理論がその最たるものです。細胞は飢餓にさらされると体の中の異物をエネルギーに変えて、浄化するというのがオートファジーです。
 コロナワクチンを打った人は特に、断食を実践してみるのは意味のあることだと思います。そして、私たちは大便、小便、汗などを通して、体の中の異物を排泄しています。お米を中心とした食養料理は大便と小便の通りを良くします。
 これから夏本番になってきますが、汗をかくには絶好の季節です。冷房もほどほどに、家の中や家の周りをよく掃除することです。夏の掃除は「汗をかききる」のに最高です。汗をかいたら、風呂の残り湯やシャワーで汗を流すことです。梅雨時から夏の湿気を多い季節は、汗が肌にまとわりついて汗腺をふさいでしまいます。汗腺がふさがれると毒素の発散が不十分になり、さらには肌の不快感が増してリンパ液の巡りがわるくなります。湿気の多い季節は一日に何度も行水やシャワーで汗を流すことです。仕事や学校で行水やシャワーができない人は、濡れたタオルで汗を拭くだけでもいいでしょう。

貧血と断食

 和道で行う半断食は、登山のように、上りと下りがあります。上りがごく少量の玄米粥をよく噛み、下りは体に合わせた飲み物や食べ物を食べていくのです。この下りを回復食といっていますが、回復食の内容は人様々なのです。
 貧血の人は断食は辛いと感じてしまいますが、一時的に断食をしないと腸の消化吸収力が高まらず、貧血を根本的に改善するのは難しいのです。
 ある夏のことでした。鉄欠乏性貧血の女性が半断食合宿に参加した時のことです。丸一日、極少食の半断食を実践したら、顔から血の気が引いて、立っているのも大変なほどになりました。これは排毒反応とは違って、腸からの栄養吸収が抑えられたことで、元々の貧血がより強く出てきてしまったのです。このような状態なると半断食の上りの行はお終いにして、回復食を始めます。体に合った食事を徐々に増やしていくのです。この時に和道では、味覚のチェックをして、より美味しく感じるものを回復食の中に取り入れていきます。(多くの場合、半断食をすると3~4日目に排毒反応があらわれることが多いのですが、貧血の強い人はそれとは違う症状が出ることが少なくないのです)
 鉄欠乏性貧血の人で回復食の柱になるのが、味噌であることが多いのです。断食によって貧血が進んだこの女性も、回復食でとるみそ汁が今まで食べてきたものの中で一番おいしい、というほど美味しかったようです。みそ汁から始まり、徐々に味噌おじや、根菜のみそ煮込み、海藻のみそ煮込み等を、日を追うごとに増やしていきました。すると、半断食を開始する前の顔色よりも赤みが出てきたのです。下瞼の内側の血色も、半断食前よりも赤みが強くなり、元々あった立ち眩みも消えていました。
 鉄欠乏性貧血だけではなく、低血圧や痩せている人など、一見すると断食が合わなそうな人であっても、回復食を上手に取り組むことで症状を改善させるのです。一時的に極少食にして、玄米粥を徹底して噛むことが腸に良い刺激になっているのでしょう。生姜シップによって、お腹や背中から腸を含めた内臓を徹底して温めているのも大きな働きです。さらに、瞑想を伴った運動、ウォーキングも大きいと感じています。
 食養では味噌(みそ)は身礎(みそ)と考えています。味噌は大豆を麹によって発酵させた食品です。大豆は畑の肉とも呼ばれ、たんぱく質が豊富です。しかし、大豆のたんぱく質はそのままでは消化し難く、昔から味噌、醤油、納豆、豆腐など、ひと手間ふた手間、時間をかけて作られてきました。この加工の工程には微生物(細菌)が欠かせない働きをしてきたのです。
 もう一人、味噌に救われた人を紹介しましょう。子宮頸がんの女性で、大量の不正出血を起こし、急激な貧血になってしまった時です。食養では止血に、よもぎ、ごま塩、醤油入り三年番茶などを使います。これも、自分に合った止血法を見つけることです。この人には「よもぎ」がてきめんに効いたのです。
 大さじ一杯のよもぎの粉末をくず湯に溶いて飲んだだけで大量の不正出血が止まったのです。時間を空けて、もう二杯のよもぎ粉末を摂ったら、一日で出血は治まりました。その後は、前出の鉄欠乏性貧血の人と同じようにみそ料理を少しずつ増やしていったら、不正出血を起こす前よりも元気になっていったのです。
 この大量の不正出血も大きな症状であるのですが、ある種の排毒になって、その後の回復食を上手に進めることで症状を改善させていったのです。
 とはいえ、味噌を美味しく感じずに造血になるからと味覚欲求を無視して食べ続けるのはよくありません。美味しく感じるかどうかが、自分に合っているかどうかなのを忘れないでください。

ネルソン・マンデラとアヒムサ

 南アフリカ共和国、黒人初の大統領ネルソン・マンデラは1918年7月18日に南アフリカで生を受けます。南アフリカは南半球ですから、7月といっても冬にあたります。ネルソンは、草が青々と生い茂り、なだらかにうねる丘が続き、川が流れる南アフリカの故郷の自然が大好きだったといいます。その川は東に向かって流れ、やがてインド洋にそそぐのです。夜になると、星座がひときわ明るく輝くアフリカの空のもと、村では大きなたき火の周りに皆が集まって、長老たちの話しに耳を傾けるのが日常の風景だったといいます。
 ネルソンは、あごひげを伸ばした老人たちがしてくれる物語を夢中で聞き入っていたといいます。「白人がやってくる前の古き良き時代」の話し。先祖たちが自分たちの国を守るために、ヨーロッパからやってきた侵略者と勇ましく戦った時の話し。こういう物語を聞きながら、ネルソンは自分も人々のために尽くしたいと思うようになっていったといいます。ネルソンが初めて通った学校は、アフリカ人だけの学校でしたが、歴史の教科書に書いてあるのはヨーロッパ人の英雄のことばかりだったといいます。時にアフリカ人のことが出てくると、「野蛮人」とか「ウシ泥棒」と書いてあるのを知り、ショックを受けました。
 しかし、ネルソンは学校の勉強だけなく、学校では教わらなかった南アフリカの歴史もいろいろと学びました。160年前に、鉄砲を持ったオランダ人やイギリス人が海の向こうからやって来て、槍しか持っていない黒人たちに戦争をしかけ、彼らの土地をほとんど全て取り上げてしまったこと。その後、ボーア戦争(ボーアというのはオランダ語で農民)でイギリス人がオランダ人を打ち負かし、それまでの敵だったオランダ人と権力を分かつようになったこと。イギリス人の政府は、南アフリカに対する完全な支配権を100万人の白人だけに与え、残りの450万人の非白人は政治に関われないようにしたのです。非白人とは、アフリカ人やアジア人、それに「カラード」と呼ばれる混血の人達のことです。
 白人だけの国会が、「白人」と「非白人」を切り離すための人種分離の法律を次々に通したのです。その狙いは、南アフリカの「非白人」を肉体労働者や使用人の地位に抑え込んでおくことにありました。この非人間的な政策を実行するのに、政府は暴力に頼りました。黒人はある一定の地域にしか住めないようにして、そこから出ようとする人たちを政府の飛行機で爆撃し、多くの黒人が命を落としたというのです。このような話をネルソンは、まだ小さい子どもの頃から聞いて育ちました。
 ネルソンが9才の時、父のヘンリー・マンデラが病気で亡くなります。父は自分の死期が近いことを知った時、ネルソンを大族長の所に預けます。そして、父の死後は大族長の養子になるのです。
 ネルソンは小さい時に父を亡くすという辛苦と、白人から迫害を受ける黒人としての苦難を一身に受けます。さらに、政治運動を志してから後に、政治犯・思想犯として28年にも及ぶ投獄生活は想像に余りある苦しみだったと思うのです。そんな状況にありながら、黒人と白人が共存するための融和をネルソン自身を含めて、白人への赦し(ゆるし)を中心にしたことは驚かざるを得ません。
 肉体を鍛えるのには体へ負荷をかける運動が大切です。一方で、心を鍛えるには、あつさ、ひもじさ、むずかしさ、さむさ、が必要だと思うのです。マクロビオティックを提唱した桜沢如一は頭文字をとって「あひむさ(アヒムサ)」といったのです。アヒムサはサンスクリット語で「アヒンムサ(不殺生)」に由来します。
 ネルソンへの教育は計らずもアヒムサ教育だったのです。アヒムサで鍛えられたネルソンは平和な社会の基礎には「ゆるし」がなくては存在しえないという想いに至るのです。

ネルソン・マンデラと陰陽

 2019年ラグビーワールドカップが日本で開催された時のことです。開会式の数日前に民放のテレビで「インビクタス/負けざる者たち」という映画が放映されました。私はこの映画を観るまで南アフリカ共和国、初の黒人大統領ネルソン・マンデラのことを詳しく知らなかったのです。南アフリカの人種隔離政策(アパルトヘイト)に立ち向かったネルソン・マンデラは有名ですが、その実態はなかなか知られていないのではないでしょうか。
 南アフリカ共和国のアパルトヘイト(人種隔離政策)は世界で一番長く残っていた人種差別政策といわれます。アパルトヘイトが撤廃されてもなお、白人の間では人種差別が残り、現実でも経済格差が強く残っていたといいます。
 1994年、ネルソン・マンデラは南アフリカ共和国初の黒人大統領になります。翌年の1995年には南アフリカ共和国でラグビーワールドカップが開催されるのですが、マンデラ大統領は、民衆の間で残るアパルトヘイトによる人種間の恐怖と憎悪にラグビーを通して払拭しようとします。黒人と白人の共同チームを作り、人種間の高かった垣根を低いものとしようと試みるのです。
 アパルトヘイトによって虐げられてきた黒人の間では、アパルトヘイトの撤廃とネルソン・マンデラという黒人大統領の誕生で、南アフリカ共和国を黒人の国にしようという機運が盛り上がります。百年以上に渡って白人からの迫害を強いられてきた黒人の感情はそのようになって致し方ないものだと思います。しかし、マンデラ大統領は、あえては黒人の人達に白人の人達を「ゆるす」ことを説くのです。殴られたら殴り返していては、長く続く負の連鎖を断ち切ることができません。黒人と白人が協調して南アフリカ共和国を築いていくにはどのようにしたらよいか、マンデラ大統領はラグビーに希望の光を託すのです。
 黒人と白人が一緒のチームで戦うことの難しさは想像以上であったことでしょう。チームキャプテンの重責も計り知れません。白人の側も、黒人にすり寄ることを良しとしない人々が多かったというのです。分断の歴史を統合するのは時間のかかることです。そんな状況下でマンデラ大統領は白人に憎悪を向ける黒人に、憎悪を捨てて赦しの行為を呼びかけるのです。
 マンデラ大統領自身、大統領になる前、28年間にわたって投獄されていたのです。政治犯、思想犯として、アパルトヘイト政策の下では犯罪者として刑務所に閉じ込められていたのです。愛する家族と引き離され、閑に耐え続けたネルソン・マンデラが白人を赦すということは理解を超えたことではあるかもしれません。しかし、マンデラ大統領は人種の壁を越えて平和な社会を築いていくには、自らの「赦し・ゆるし」がなくては、人種の壁を越えられないという想いに至ったといいます。
 このことを理解するには、人間としてのネルソン・マンデラを知らなければわかりません。次回、ネルソン・マンデラの人生を観ていきますが、人種の陰陽と世界情勢を観てみても、有色人種が白色人種を陰性で包み込まなければ世界平和は訪れないと思うのです。熱帯という陽性な環境下では陰性な植物が育ち、それらの陰性な食によって陰性な人間が育まれます。一方、寒冷という陰性な環境下では陽性な肉食をせざるをえなく、それらの陽性な食によって陽性な人間が育つのです。
 赦しという行為は陰性な要素がなければできることではありません。陰性が陽性を包み込んでこそ、世界平和が実現するのだと、陰陽でみると理解できるのです。